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【Bu et Sports de combat】武術で勝つ。型の分解、ナイファンチン編(02)「横への隙を無くすため」

【写真】横からやってくる相手へ対応ではなく、横への隙を無くすのがナイファンチン (C)MMAPLANET

武術でMMAを勝つ。空手でMMAに勝利する──型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。型稽古とは自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない。

サンチン、ナイファンチン、セイサン、パッサイ、クーサンクーの型稽古を行う剛毅會では、まずサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。

全ての根幹となる武術の呼吸を学ぶことができる──サンチンで創られた、空手の体をいかに使うのか。その第一歩となるナイファンチの解析を行いたい。第2回となる今回は、ナイファンチンという「手っ取り早く喧嘩に強くなる」型を知る前に、改めて武術と格闘技、格闘技と喧嘩の違いについて話──後編をお届けしたい。

<ナイファンチン第1回はコチラから>


──格闘であっても、闘争でないと。

「空手の道場では組手をする際に『どうすれば良いですか?』という問いがあった時は、『喧嘩のつもりでやりゃぁ良いんだよ』という答えでした。ところが時代とともに、この言葉は通じなくなってきました」

──喧嘩をしていない子供たちが増えたということでしょうか。

「ハイ。喧嘩もそうですが、怒りという感情がない。怒っちゃいけないように教育されているんです。そういう教育になっています。人に迷惑を掛けちゃいけない。いやいや、子供は迷惑を掛けて良いんです。そのために大人がいます。子供の迷惑を受け止めないで、迷惑を掛けるなという教育をするから、何が迷惑なのか、自分の感情を出すことができなくなっています。

だから大人になって迷惑を掛ける人間だらけになったんです。子供の喧嘩なんて、本気でも素人なんです。そういう時に怒ることができなくて、その感情を抑えてより弱い者にぶつける。そういう世の中です。路上の無差別殺人、狙いは女性、子供、ご老人ばかりです。人を殺して、自分も死にたいとか言って、ヤクザに切りかかる輩はいません。

教育現場や格闘技の道場で『死ね』という言葉が聞かれなくなった。それは『死ね』と言われて、『嫌だ。死ぬもんか』という怒りで現状を跳ね返していたのが、そういう言葉を聞かされても怒れなくて、落ち込んでしまう。それって間に一つ抜けちゃっているんじゃないかのと」

──あまり声を大にして言えないですけど、ふた昔も以前に格闘王を名乗る人と口論になったことがありました。あの時に『殺すぞ』と言われたのですが、その言葉を吐く限りは『お前も殺される覚悟ができているんだろうな!!』と口論以上に発展しそうになって(笑)。

「アハハハハ。ただし、そういうことなんです。相手に飛びかかられたことで、自分が何を口にしたのか理解したことでしょう。『殺す』という言葉が、その御仁にとっては武装ということなのでしょうが、あなただけでなく相手も武装していますよ──ということは、闘争をするうえでは忘れてはいけないです。

そういうことが完全に抜け落ちているんです。言われた方が、『お前も殺されるぞ』という感情を持たないから。そこがないと、命の脅かし合いの攻防とはならない。本気の命の脅かし合いのなかで使うモノが武術です。自分の精神に一片のごまかしがあってもならないんです」

──とはいえ、武術を鍛錬するうえでも殺し合いはできないです。

「仰る通りです。やっちゃいけないことです。ローマ帝国の頃から『汝平和を欲さば、戦への備えをせよ』という格言があります。一太刀で相手を倒す稽古をしていると、人を殺める必要性はなくなります。武術、武道の存在意義はそこにあります。だから型稽古が存在しています。

幕末に防具剣道をやっている人たちが実戦ではそれほど役に立たなかった。真剣で巻き藁を切り、型稽古をしている人の方が斬ることができた。どれだけ人を斬る状態を創っているのか。MMAは命のやり取りが念頭にあるモノではないです。だからこそ、どれだけ本気で勝つための練習をしているのかが問われるのだと感じるようになりました」

──ではMMAを戦うわけでも、空手のコンペティションに出るわけでもない人間が型稽古をすることは人を殺める業を稽古していることになるのですか。

「そうです。自分の命、家族に危害を加える人間がいるという前提で稽古をしているので。そんな人間がいないと思うなら、稽古をする必要はありません。世の中、信じているモノに裏切られることいくらでもあります」

──ハイ。

「だからといって『裏切られた』とか言っても、筋違いです。そういうことがあるという前提、それに耐えうる精神的、肉体的な強さをつけておく必要はMMAを戦う、格闘技の試合に出るという意志がなくても、身につけておいて何ら損はないと私は思っています。そして型稽古で言いますと、ナイファンチンからそういう武の核心に入っていきます。殺さないために殺し合いを学ぶ──その領域にナイファンチンから入っていくことになります」

──ナイファンチンは横移動です。そこから何を学ぶことが前提となっているのでしょうか。

「横に移動することで横から来る人間への対応方法思われがちですが、横から来る人間と戦うのではなくて、自身の横への隙を無くすためだと考えてください。正面を向いていて横に隙ができやすいのが人間です。

言うと……どこを向いていようが、360度を気にしないといけない。その360度はクーサンクーで学びます。パッサイは斜めです。いずれも隙ができやすいところの隙をなくす、それが型稽古なんです。

隙がなくなると、正面への反応、動きが見違えるほど速くなります。後方に隙ができるのが人間です。続いて横です。正面は一番、意識できる。だからこそ、後ろと横に隙ができてしまう。その隙をなくすことが、私が行っている型稽古の目的です」

<続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─04─サンチン03「呼吸、体、精神」

【写真】剛毅會のサンチンでは、息を吐くときにハッキリと発声することはない (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

同じサンチンでも、各流派で順序こそ同じであっても、内容が違ってくる。中身が違う一番の理由は、型稽古を行う目的が違うためだ。力を出すための型稽古と、力が出る型稽古は呼吸の意味合いも違っていた。

武術空手のサンチンで行う呼吸とは、英語にした場合にはBreathingにはならない。そして、『ハァ』という発生を伴う呼吸もない。空手における息吹の有無、ここに触れてみたい。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─03─サンチン02「目的と設計図」はコチラから>


──Breathingでないということは、息を吸って吐いて、だけではないということでしょうか。「阿吽の呼吸」という言葉にある呼吸に、通じているのですか。

「そういう風にいう呼吸ですよね。相撲は立ち合いで呼吸が合わないと、始まらないですよね。呼吸という言葉を、阿吽の呼吸や相撲の立ち合いでの呼吸という風に使っている国は、日本の他にないと思います」

──呼吸とは息づかい、あるいは英語だと息をつくということで休憩するという意味ぐらいですね。

「そういう日本独自の言い方の呼吸……ですよ。Breathingではない。一つ言えるのは、オーケストラの指揮者がいるじゃないですか」

──ハイ。

「アレも同じ譜面があっても、名指揮者と呼ばれる人がタクトを振るのと、覚えたて人がするのでは、同じ軌道を描いたとしても違ってくるはずです。それも日本語独自の呼吸ですよね」

──演奏者と指揮者の呼吸ですね、まさに。

「ピアノの伴奏に合わせて、歌い手が歌うのも呼吸ですね。サンチンは突いて、それを円で腕受けする。言ってみると、それしかない型なのに突いてからの腕受けの呼吸が、どれだけでも深めていけるんですよ。サンチンとは、その呼吸を得ることができる唯一の型なんです」

──その呼吸がBreathingでない、呼吸になるのですか。

「Breathing、医学的にいう呼吸もあります。吸って、吐くという」

──サンチンの呼吸は吐く時に口を開け気味にして、しっかりと意識しています。

「ただし、それは呼吸を人に見せているのではなく、呼吸を意識することで、自分の呼吸を理解しているんです」

──そこが最も重要だというのは?

「吸って、吐いてという呼吸はナイファンチンからはやらないんです。吸って、吐いての呼吸と同様に動作の呼吸というものがあります。それが先ほどのタクトを振るうということで例えると、何となく振っているのと、オーケストラ―全体を俯瞰して、そのハーモニーを考えて振るのでは、武術的に言えば呼吸が違うということになります」

──もっと大きく声をあげる、いわゆる息吹という呼吸はどういうものなのでしょうか。

「私がやってきた他流派のサンチンの呼吸は、ただ単に吸って、吐くというものでした。喉を鳴らして『カァ~』って言う」

──息吹はなぜ、あの『カァ~』という声を出すのですか。

「ああいう呼吸は、東恩納寛量先生はしていなかった。宮城長順先生から始まったと私は聞いています」

──剛柔流の開祖の宮城朝順から息吹を始め、極真もその流れをくんでいると。

「これも聞いた話なのですが、宮城先生が中国を訪れた時に、そこで見た……それは福建省の白鶴拳でまず間違いなくて。白鶴拳にも飛鶴拳、宿鶴拳、食鶴拳、鳴鶴拳という四大流派があります。

そのなかで宮城先生は鳴鶴拳を見てきたみたいで、その影響を受けたと聞きました。鳴鶴拳は、その名の通り鶴が鳴く、威嚇する形意を表していて、その際に套路で攻撃の威力を増すために内勁(内功)を練る。その呼吸法として、『クォ~』、『カァ』という声を挙げているようなんです」

──それは鶴の真似をしてという風に理解して良いでしょうか。

「鳴いている鶴の真似をしているんだと思いますよ」

──息吹は鶴の鳴きまねだったと。それって元々は白鶴拳では内功を練るということですが、声を出すことが必要だと思われますか。

「う~ん、そういう風に疑問を感じたことがなかったんですよ。やりなさいと指導を受けて。審査のためにやっていたようなモノで」

──奇しくも水垣偉弥選手が剣道をやっていて、剣道にも型があるのですが、昇段検査のために何も考えることなく覚えていたと言っていたことがありました。

「そうですね。やらないと、帯がもらえない。そういうことでしたね。それが──精神を落ち着けるためにあるだとか、そういう風に書いてある本もありました。臍下丹田(せいかたんでん)に力を込めて、『クォ~』、『カァ』とやることで心を落ち着けるだとか。だから試し割の前に、心を落ち着けるために『クォ~』、『カァ』とはよくやっていましたよ」

──精神統一のために。自己催眠のようにして、落ち着くのですか。

「いやぁ、無理でしたね(苦笑)。そりゃ、緊張してしまっていますからね……そんなことをしても。だから、そういう経験がなかったり、知識がなくて剛毅會でサンチンを始めたような人のなかには、呼吸という部分に関して他で経験してきた人達よりも感じやすいというのはあります。それって他の知識や経験がないので、自分が感じたこと……そのものズバリなんです」

──空手は流派が多く、サンチンを実際に行っているところも少なくない。だからこそ、呼吸のためのサンチンというものが存在しないサンチンが往々にあるということなのですね。

「ウチでやっているサンチンしか知らない。そこで何かを感じ取っていると、『クォ~』、『カァ』とやるのを見ると違和感を覚えるばかりでしょうね」

──その呼吸ですが、例えばヨガだとやっている間に眠くなるというのを聞いたこともありますし、実際に見学しているとやっている人が眠ってしまったのを見たこともあります。ゆっくり呼吸をすることで、サンチンをしている時に眠気を覚えるようなこともあるのではないでしょうか。

「あるかもしれないですが、それは良くないことです。それは気持ち良くなってしまっていますよね。力むよりも良いですが、ゆっくり動くなかで筋肉や、心の状態にどのように呼吸が影響しているのかが、体得できていない。だから眠くなる。サンチンは呼吸、体、精神という三位一体で見つめて、深めていけるものです。同じ姿勢でも、ゆっくりと呼吸を理解していけば、足元にその影響が出ているとか、自分で感じることができます。

その想いが共有できない人に動きの順序や、形を真似てもらっても、そこは理解できない。と同時に理解し始めた人が、もっと知ろうと疑問をぶつけてくれた時、そういう部分を掘り下げていないと、答えることすらできない。そして言葉では、もう延々と説明ができてしまうので、『なら実際に動きましょう』となる。その繰り返しなんです。やればやるほど味のある型、それがサンチンです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─03─サンチン02「目的と設計図」

【写真】廻し受け──虎口も呼吸が違うのは、型を行う目的が違う。ではその目的とは何なのだろうか(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

同じサンチンでも、各流派で順序こそ同じであっても、内容が違ってくる。なぜ、中身が違うサンチンとなるのか。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─02─サンチン01「根幹となる呼吸」はコチラから>


──剛毅會ではサンチン、ナイファンチン、クーサンクー、パッサイ、セイサンという5つの型の稽古をします。そして口からの呼吸を通してカラダの呼吸をサンチンにより学ぶとのころです。そこで得たことで、その後の技は変わってくる。呼吸を突き詰めれば詰めるほど深く、強くなっていくと。そして呼吸によって養われる破壊力は、加齢に関係なく上がってくということですが、このサンチンにしても剛毅會のサンチンと伝統派、フルコンタクト空手の流派が行うサンチンは順序が同じでも、呼吸や動きが明らかに異物です。

「私は他流派といっても、伝統派のサンチンの稽古をしたことがないので何ともいえませんが、剛柔流のサンチンと極真のサンチンは同じ流れで来ていると思っていました」

──動画などで視てみると、こういう表現が正しいのか分からないのですが、極真のサンチンの方がキビキビしているように感じました。剛柔流に対して、もちろん剛毅會のサンチンと比較しても。

「う~ん、キビキビして見えるのは、決めが原因になっていると思います。私の追求している武術空手とは、決めの意味が違うんです。なぜ、決めの意味が違うのか、それは目的が違っているからなんです。そのサンチンもシンプルな突いて、腕受け、突いて、腕受け、中割れ、虎口という流れはほとんど同じです。

そしてサンチンとは、吸って吐いての呼吸の型。または筋肉……体を鍛える鍛錬の型と言われています。しかし、その呼吸の目的、鍛錬の目的が全然違うということなんです」

──岩﨑さんの経験談として、極真空手時代にどのような鍛錬を行っていたのかを教えていただけますか。

「私はまぁ角材で体を叩いたり……ですね。そういうことで体が強くなるという。ただし、今から思うと鍛錬することで最も大切なことは、力を出してはいけないということなんです」

──力を出してはいけない?

「筋肉を締めて、力を入れて……つまり力を使って痛くないようにしても、それは空手の鍛錬にはならないんです。サンチンなど型で力を出すのではなく、型よりに力が出ていないといけないんです」

──力を出すというは、力を出そうという意識が働いているということでしょうか。

「その通りです。力を出そうとするのと、出ているのではまるっきり違います。どうしても鍛錬するというと、鍛えるという意識が働くので力を込めてしまうんです。でも、それでは意味がない。剛毅會空手にとって正しい型を稽古すれば……そうですね、呼吸をゆっくりして、突きや腕受けにしても、キビキビとしたキレなどなくても良いんです。それによって、強さや繋がった感じなどが明らかに違ってきます。

つまり設計図通りに型をすれば、ある種の力が出てくるんです。それは力を込めても、出るものではないということですね」

──では順序は同じでも、設計図が違うということですね。つまり根本が。

「目的が違えば設計図が違い、全てが違ってきます。もう、だから型といってもまるで違うもので、こういうことをいうとアレなんですが、私の気持ちとしてはコメントのしようがないんですよね。同じ順序、同じ名称であることがもう、そもそも違うだろうということなので。

極端な話になりますが、筋肉を締めて力をだすのであれば、型でなくウェイト・トレーニングをすれば良いと思いませんか?」

──あっ、なるほど。その例えは型を知るうえで凄く言い得て妙ですね。

「ウェイトで鍛えた筋肉があれば、殴られてもやられないようになります。でも、それはサンチンをすることで出ている力ではないということです」

──サンチンが違っているのであれば、もう他の型も全て違ってきませんか。

「そうなんです。指を伸ばして突いてみたとします。指は弱いですから。それを巻き藁とか砂袋、小豆の中に突っ込んで貫手を鍛えるとかありますが、それで私は強くなった覚えはないです。そうするよりも指を伸ばした設計図通りにやれば、力は出ているんです。力を出しているのではなくて、そういう力が出ているんです」

──では昔の沖縄の手の人たちは、硬いところを殴って鍛錬するというのは、力を出すのではなくて、力が出るよう稽古していたということですか。

「それは分かりません。私は琉球の型がどうだったのか、分からないんです。私が習った型がそうであっただけで。ただし、叩くということと型はまた違うかもしれないですしね。だから私は消去法で見ています」

──消去法で見るというのは?

「空手は数多くの流派があり、それだけの稽古があります。どのような稽古をしているのか、それを耳にしたときに自分が求めているモノと共通している部分はあるのか。あるいは全く関係ないのか。そういう部分で、自分が探求したい、知りたいというモノ……消去法で残ってものに対して学ばせていただくという気持ちでいます。

イメージとしては昔の手の人たちは何かを叩くというよりも、お豆腐のような柔らかいモノのなかに指が綺麗に入っていく。そういう感じに近いような気がします。貫手の場合は」

──では呼吸の目的の違いとは、どのようなことでしょうか。

「呼吸に関しては……多分ですね、もう語りつくせぬほど違いが見られます。そのなかでも根本として、自分の呼吸と相手との呼吸が存在し、武術空手のサンチンで行う呼吸とは、英語にした場合にはBreathingにはならないわけです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─02─サンチン01「根幹となる呼吸」

Sanchin【写真】松嶋こよみのサンチンの最初の流れ (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也師範は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

なぜ那覇手のサンチンから型を学ぶのか。そしてサンチンが持つ意味とは何なのかを今回から探っていきたい。

<なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─01─はコチラから>


──今、空手界には多くの型が存在しています。

「剛毅會で取り入れているのは、5つです。サンチン、ナイファンチン、クーサンクー、パッサイ、セイサンですね。5つの型を稽古していますが、求めているのは1つだけなんです」

──それもどういうことなのでしょうか。5つの型を稽古して、求めているモノは1つというのは。

「勉強をしているのは、ある法則性なんです。サンチンでは全ての根幹になる武術の呼吸を、ナイファンチンでは戦い方の基本を、クーサンクーでは四方に対する戦い方を、パッサイでは途切れることない技の流れを、セイサンでは究極の一挙動を学びます。

これからどういうことなのかは、これから説明していくことになりますが、この5つの型を稽古して、求めるものは一つ、原理原則なのです。

だからサンチンでやっていることが、ナイファンチンだったり、ナイファンチンで要求していることをクーサンクーでやったり。最後にセイサンをやって、そこでサンチンが理解できることがある。だから、5つの別々の型をやっているのではなく、1つのことを追求するのに5つの手段をこうじているということなんです」

──1つのことを求めるのに、なぜ稽古する型はその5つに絞られたのでしょうか。

「型はもう本当に色々なモノがあり、私がやる武術空手と系統が違うモノが山ほどあります。その多くが日本に入ってきて、整備された後の型なんです。そして私がこの5つの型を続けているのは、〇〇流の型だとか、〇〇先生の型ということではなく、MMAのなかで自分自身の組手が変わったのが、この5つの型があったからなんです」

──組手が変わったというのは?

「まぁMMAだろうが、私は空手家だから組手です。それまで20年間変わらなかったものが、ある日急に変わりました。『これは何だろう?』となりましたね……。それ以前は型に何かがあるというのは全く思いもしていなかったです。型をやらされていて……いみじくもやらされていてと発言をしましたが、そういうものだったんです。型が組手にどうつながるのか、全く学んでいなかったです」

──組手と型はまるで別物だと。

「ハイ。本当に別物でした。昇段審査のためにやる。伝統派空手の型競技とも違いますし、自分がやってきた型も組手には関係なかったです。だから、今では格闘技と武術は違うと言っていますが、自分自身のなかでは組手で勝つために型をやりました。

それは松嶋こよみが型の稽古をする理由とは違うかもしれない。ましてや格闘技をやっていない人が、ヨガのように健康法として型をやるのとも目的は全く違うでしょう。ただし、自分の状態を知ることと、他との関係を知るという真理は格闘技にも、健康のためにも役立つことです」

──沖縄空手には那覇手、首里手、泊手が存在していましたが、サンチンは那覇手、ナイファンチやクーサンクーは首里手や泊手。そのなかで岩﨑さんはサンチンから、まず稽古をします。

「別にナイファンチからやっても良いと思います。ただし、私が習った順番がサンチンからだったので、その順序で指導しているということです。系統的にいえるのは、私のやっているサンチンは那覇手の東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)先生のサンチンです。その後、教え子の宮城長順先生が剛柔流空手を開きましたが、私が習ったのは東恩納寛量先生のサンチンだと聞いています」

──剛柔流でないということは……つまり。

「弄られていないモノですね」

──東恩納寛量のサンチンが残っていたというのが、凄いことですね。それはいつ頃の話になりますか。

「15年ぐらい前ですかね。とにもかくにもサンチンでした。だからサンチンから指導する。これは私の感覚なのですが、そもそも私が習った先生から、『空手という武術の稽古は、那覇で鍛え、首里で使う』という沖縄に伝わったとされる言葉を教わりました。

空手を学ぶにしても、どういう体質なのか、どのような人間なのかでそれからは決まってきます。だから素材を理解せずに、使い方だけ覚えても限界があります。サンチンで自分という素材を把握して、なおかつ開発していくのです」

──5つの型を稽古して、一つのモノを求めるということですが、サンチンが基礎、根幹をなすということですか。

「根幹になる呼吸ですね。型の基礎、根幹ではなく。どのような畑でどのような作物を作っていくかということに近いかもしれないですね。これもいずれ詳しく説明しますが、武術には口からの呼吸とカラダの呼吸があります。

サンチンでは口からの呼吸を通してカラダの呼吸を学びます。呼吸は農作における田畑や気候などであり、それにより出来上がる作物こそ、武術でいうところの技になります。サンチンによって、技は当然変わってくるんです。そして呼吸は突き詰めれば詰めるほど深く、強くなっていいきます。その呼吸により養われる破壊力は、加齢に関係なく上がっていくという実感があります。

これも私の考えですが、エビ、ヒップエスケープが仮に寝技の根幹だったして柔術や柔道に存在するとします。それは柔道や柔術をやる人にとっての基礎ですよね。ゴルフや野球にも、そういう根幹があるでしょう。

でも、それはゴルフや野球をやらない人には関係ないです。エビは柔道や柔術をやらない人には関係がない。でもサンチンをやっていると立ち方から、自分の動き、その癖を理解できるようになります。サンチンとは柔道や柔術をする人達、野球やゴルフをやる人々にも役立ちします。つまりは空手、MMA、格闘技をやろうがやるまいが、型を学んで損はないということなんです」

<この項、続く>