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Interview Special The Fight Must Go On WEC34 アレッシャンドリ・フランサ・ノゲイラ ジョゼ・アルド ブログ ミゲール・トーレス 前田吉朗

【The Fight Must Go On】Media Passから後追い取材─01─2008年6月1日、WEC34&ミゲール・トーレス

WEC【写真】当時、UFCは既に北米メジャー大会で日本の専門誌のケージサイドの撮影は認めなくなっていたが、WECではケージサイドスポットが与えられていた(C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第33弾はMedia Passから──ポストファイト・インタビュー、その01として2008年6月1日のWEC34後のミゲール・トーレスのインタビューをゴング格闘技#194号から、再録して紹介したい。

Torres vs MaedaZuffa買収後、軽量級普及のために全米ケーブルネットワークで中継されるようなったWEC。

エース・ライア・フェイバーがジェンス・パルヴァーを地元サクラメントで迎え撃った大会のセミファイナルで、WEC世界バンタム級王者ミゲール・トーレスは日本から刺客=前田吉朗をTKOで下している。

Gina Caranoこの前夜、ニュージャージー州ニューアークのブルデンシャル・センターでElite XCがCBSでライブ中継大会を行なったビッグショーを行い、翌朝に朝一番の飛行機でカリフォルニアへ移動し、ギリギリのタイミングで間に合うという冷や汗もの取材だった。

確か、サクラメントの空港から『パンチを予見する男』福田直樹さんのレンタカーに同乗させてもらった記憶がある。

そこまでしてこの大会を取材した理由は、メインのユライア✖ジェンス、そしてセミのミゲール✖前田選手ではなく、第2試合でアレッシャンドリ・フランサ・ノゲイラがWEC初戦を戦ったからだ。

Also vs Pequenho無敵の修斗ライト級(現フェザー級)王者は、その比類なきギロチンの強さで一時代を築いた。そして、MMAの覇権は軽量級ですら日本から米国に移り、ペケーニョがメジャーに挑む。

勝手ながらペケーニョを追うのは自分だという使命感を持って痺れるスケジュールで取材を敢行した。結果、ペケーニョは組もうとして打撃を貰い続け最後は2Rでパウンドアウトされる。ペケーニョに完勝し、MMAの進化を見せつけたのは同朋のジョゼ・アルドだった。

ユライアがジェンスを、アルドがペケーニョに完勝した夜、大会終了後にミゲールが宿泊するホテルのエレベーターホールに座り込んでインタビューに応じてくれた。そこで話された内容はMMAが世に認められる前を知る──ミゲール・トーレスだらこそ語ることができる、MMA夜明け前夜の物語だった。



Niguel Torres――前田吉朗選手をTKOで下し、WEC世界バンタム級王座初防衛に成功したミゲール・トーレス選手。その激闘の程が顕著に表れた額の傷です。何針、縫いましたか。

「6針だよ。でも、全く大丈夫だ。体はピンピンしている。足首が少し痛むけど、これはマエダのアンクルロックでやられたからじゃないんだ。2カ月前にキックの練習をしていて怪我をしていたんだよ」

――そこに足首固めを仕掛けられたのでは、相当痛みがあったのではないですか。

「痛かったよ。でも、アンクルロックでタップだけはしない。僕が見様見真似でグラップリングを始めた時から、アンクルロックの練習をしていたから、自分が戦えるかどうかぐらい判断できるよ」

――1、2Rは苦戦した場面も何度もありました。それでも3Rになってから動きが速くなったのに驚かされました。

「僕が速くなったんだじゃない。マエダが遅くなったんだよ。ずっと同じペースで戦えるようにトレーニングをしてきたから。3Rの開始が、試合開始のつもりで練習してきた。マエダに額をカットされて、もっとクールなファイターのつもりだったけど、感情を抑えきれなくなった。父は『あんな風に二度となるな』って怒っていたよ。

血を見て、感情的になったんだ。でも、マエダのようなファイターにはそうやって戦った方がよりチャンスがあると思っていたんだ。殴られたら殴り返すという気持ちを持っているファイターだから、前に出れば出るだけチャンスが広がる。マエダの気持ちが強い分だけ、ダメージを与え、疲れさせることができる。ボディへのヒザ蹴りを多く打ったのは、そういう狙いがあったんだ」

――実際のところ外見とは違い、冷静だったのではないですか。

「本当に感情的だった。でも、僕はバーやジムで戦ってきた過去がある。荒いファイトでも最後は自分をコントロールできる」

――バーで戦っていた?

「17歳のとき、僕のホームタウンのバーでイリーガルファイトが始まったんだ。イリーガルなのにポスターも貼られて、宣伝されていたんだ。すぐに戦いたいと申し出たんだけど、小さすぎるという理由で断られた。120ポンドしかなくて、やせっぽちだったからね。18歳になり、ようやく戦うチャンスをもらうと、ガレージで友人とキックとボクシングを自己流で練習しているだけの僕は、10秒ほどでKO勝ちしちゃったんだ。

すると徐々に試合機会が増えていった。公式記録になんて残らないファイトだよ。僕自身、戦相手の名前すら覚えていない。計量もないし、階級もなかった。薄くて、縫い合わせが雑で、擦りつけると簡単にカットできるグローブをつけて戦っていたんだ」

――まさに地下ファイトといった危険なファイトですね。

「試合タイムは5分×2Rとだけ決まっていて、バーの中央にリングを持ち込んでいたから、一応はMMAの体裁だけは整っていたかな。そんなバーでの試合以外に、僕らのようにグループ単位で練習している連中の間で、道場マッチも盛んだったんだ」

――道場マッチはどのようなルールだったのですか。

「エルボーも踏みつけもあり、ただし、体重だけは合わせるようにしていた。1年半の間に5試合ジムで戦い、10試合ノーウェイト制のバーで戦った。WECの発表するプロフィールではキャリア34戦だけど、本当はマエダとの試合で48勝目を挙げたことになる。通算戦線は49戦48勝1敗だよ」

――当時から、ガードからの関節技を得意にしていたのですか。

「バーやジムでやっていた頃は、スタンドで戦うことが多かった。寝技で使う技は3つだけ。ギロチン、三角絞め、そしてアンクルロックだ。マルコ・フアスが、僕に三角絞めを教えてくれたんだ」

――マルコ・フアスが?

「そう、彼とバス・ルッテンの教則ビデオを持っていた友人がいて、そのビデオが僕らの関節技の先生だった(笑)。対戦相手はMMAが分かっていない喧嘩好き、レスラーかボクサーばかりあったから、本当に基礎的なことしか紹介されていなかったけど、しっかり通用したよ」

――トーレス選手はそもそも、なぜ格闘技を始めたのですか。

「僕はボクシング、カラテ、テコンドー、あらゆるコンバット・スポーツに興味を持っていた」

――ボクシングは米国に住むメキシコ人にとって最も人気のあるスポーツですよね。

「父は毎晩のようにボクシング中継を見ていて、僕はその隣に座っていたんだ。ボクシングも大好きだったけど、僕の街にはボクシング・ジムがなかった。でも、カラテやテコンドーのような武道のジムはあったんだ。ブルース・リーやカラテ・キッド、サムライ・ムービーも大好きだったし、7歳の時にカラテを始めたんだ」

――他のスポーツ、球技などには興味はなかったのですか。

「サッカーは6歳の時からやっていた。レッスン料を支払えなくなって、カラテの練習を1年半後に続けられなくなっから、それからはサッカーをしていた。体を動かしていたかったからね。14歳になって、新聞配達や芝生刈りのバイトをして、テコンドーを習うようになったんだ」

――レッスン費用を両親に頼らず、格闘技ができる環境を自身で用意したと。

「家族も、そこまで必死になって取り組めるものがあって宜しい――なんて感じだったけど、さすがにプロのファイターになるとは思っていなかったみたいだよ。大学に進んで、ドクター、法律家、ビジネスマンになってほしかったんだろうね。どこにでもいる親と一緒だよ。僕はカレッジには進んだけど、ファイターとして生きていくのに大学に通うのは回り道だったよ。で、卒業したとき、両親は『さぁ就職だね』と言ってきたけど、『これでファイトに専念できる』って答えたんだ」

――そのファイターになるための、第一歩が自身で稼いだお金をつぎ込んだテコンドーだったのですが、もっとMMAにリンクできる格闘技を学ぼうとは?

「その通りだね。テコンドーの先生は僕に『テコンドーが最高の格闘技だ』と、言い続け洗脳していたんだ。一発の蹴りで、勝負はつくって。ハイスクールではレスリングが盛んで、彼らはレスリングが最高だと思っていた。そしてメキシコ人で無口な僕がテコンドーをやっていることに目をつけ、スパーリングをすることになったんだ。僕は蹴りを使った瞬間、フロアに叩きつけられたよ。『先生、どうやったら彼らの攻撃をストップできるのですか』、僕はすぐに尋ねたんだ。でも、先生はその解決策を持っていなかった。それでも僕はテコンドーの技術で、テイクダウンを防ぐ術を考えたけど、答に辿りつかなかった。そして、テコンドーを辞めたんだよ。もっとルールがなく、顔を殴ることが必要だと思ったから、キックボクシングとボクシングを始め、柔術の練習を開始した」

――その頃にはUFCを見ていたのですか。

「第1回大会から見ているよ。だから、すぐに柔術を始めたかった。でも、柔術のアカデミーは当然のように、僕の住んでいる辺りにはなかった。レスリングを習おうかと思ったけど、ハイスクールの連中は僕を仲間に入れてくれなかったしね。僕は細いからレスリングは無理だっていうんだ。まぁ、いいよ。今、多くのレスラーが僕のジムにやってきて柔術を習いたいって言うんだからね(笑)。結果、僕はガレージで友人たちとトレーニングを始めたんだ。凄く小さなマットでね。僕はガレージ生まれのファイターなんだ」

――それほど細く相手を見つけることも難しかったのに、ボクサーになろうという思いはなかったですか。

「ボクシングを本格的に習うには、シカゴまで通わないといけなかった。当時は車を持っていなかったし、レッスン料もかかる。働きながらカレッジに通っていたので、シカゴでボクシングを習う余裕はなかったよ。だから、ハモンドにいて可能になる練習しかできなかったんだ。それに、もうMMAに夢中になっていたからボクサーになろうという気持ちはなかった。キックも使いたかったしね」

――寝技だけでなく、立ち技も自己流だったのですね。

「そうだよ。指導者なんていなかった。ボクシング、キックだけじゃく自分が身につけていたカラテ、テコンドーの技も取り入れていたよ」

――オレ流の練習で、イリーガルなファイトで練習し、本格的にプロMMAの大会に出場するようになったというわけですね。

「本格的というか、バーをつかった一応は認められた大会だった。ファイトマネーは最初は0ドル。次の試合が100ドル、それから20ドルぐらいずつ上がっていった。そういうイベントを行っていたのがブラーリオ・コラル、そう、その後エリック・ムーンと共同でアイアンハート・クラウン(以下、IHC)を運営するようになった奴さ。

コラル(左)とエリック・ムーンに挟まれて

コラル(左)とエリック・ムーンに挟まれて

僕のMMAキャリアでコラルとの付き合いは、とても長い。彼の金払いの悪さには、本当に手を焼いたよ。今や犬猿の仲だけどね(笑)。

僕は多くの観客をアリーナに呼ぶことができたから、IHCやトータル・コンバット・チャレンジという地元の大会でも、結構いい契約を結ぶことができた。でも、コラルはエリックとIHCを共同で開き2000人~3000人の観客が集まるようになっても、ファイトマネーを支払おうとしなかった。で、エリックがポケットマネーで渡してくれたんだよ」

――なるほど、UFC人気が爆発する以前のMMAらしい話です。MMA好きでも、いろいろなタイプの人間が関わっていたものです。プロになってからの練習環境も、以前のように俺流だったのですか。

「コラルのバーファイトに出るようになったのが2000年からで、その1年前に初めて柔術を習った。ヒクソン・グレイシーがやってきてセミナーを開いたんだ。100人ぐらい参加者がいて、セミナー後には数人に青帯が与えられた。その時、青帯を受けた連中と道衣を着たトレーニングを始めるようになり、その中の一人がブラーリオ・コラルだったというわけさ。

彼のジムへ行き、そこで練習仲間はできたけど、まだ指導者はいなかった。僕の寝技は、自分たちで試行錯誤のなか磨いてきた。その後、インディアナポリスで試合があった時に、マルセーロ・モンテーロという柔術家と会ったんだ。彼がデラヒーバのことを紹介してくれて、1カ月後にリオの彼のアカデミーへ行った。ブラジルでのトレーニングは良い経験になった。青帯だったけど、もう30試合もMMAを戦っていたから、思った以上に対応できたんだ。そうしたら、デラヒーバは僕に紫帯をくれたんだ」

――ヒカルド・デラヒーバの下で柔術を学んでいた当時、プロ34戦目として発表されていたIHCで行われた修斗公式戦で、ライアン・アッカーマン選手に判定負けを喫しました。キャリア唯一の敗北です。

「ヒザの手術をして、1年半ぶりの試合。万全のコンディションでなく、当時の僕としては重い61キロ契約だった。そして、1Rが終わった時点で足が動かなくなったんだ。気持ちは戦いたいのに、足が動かない。もどかしくて、しょうがなかった。僕の足はスパゲッティのようにフニャフニャになっていた、肉離れを起こしていたんだ」

――テイクダウンを奪われ続けたのは、その肉離れが原因だったのですね。

「使った技がギロチンとトライアングルだけだったのも、そうだよ。あんな結果に終わってファンは涙を流しているし、自分の不甲斐無さに怒りを感じた。彼らにあんな思いを二度とさせないためにも、この試合後7カ月も試合ができなかったけど、柔術もボクシングも、さらにハードに練習するようになった。そして、再戦ではアッカーマンを叩きのめしたよ」

――そもそも、なぜシカゴにあるカーウソン・グレイシーJrのアカデミーに通わず、ブラジルまで足を運んでいたのか、当時から疑問に思っていたのです。その後、カーウソン門下になってはいるのですが。

IHC時代、マリアッチの演奏で入場するミゲールの後方に在りし日のカーウソンの姿が見られる

IHC時代、マリアッチの演奏で入場するミゲールの後方に在りし日のカーウソンの姿が見られる

「なぜ? 僕はカーウソン・グレイシーがシカゴにいることを知らなかったんだ(笑)。

デラヒーバが、『なぜ、わざわざブラジルまで何度もやってくるんだ? カーウソンがシカゴにいるじゃないか』って教えてくれたんだよ。帰国後、カーウソンのところを訪ねて自己紹介をしたら、『君のことは知っている。何度も、試合を見ているから』って言うんだ(笑)。試合場でカーウソンが僕に話しかけてくれていたら飛行機で10時間かかるブラジルでなく、車を使って30分で行けるシカゴで柔術を習うことができたのにね」

――確かIHCではカーウソンJrをリング上で紹介していましたよ。

「僕は地下の控え室にいたし、誰が誰だか分からなかったんだ(笑)」

――ハハハハ。確かにIHCが使っていたハモンド・シビックセンターの控え室は地下3階ぐらいにありましたね。その後、カーウソンとはどれくらいの間、トレーニングをすることができたのですか。

「5年間だよ。カーウソンが亡くなるまで、ずっとカーウソンとやっていた。ステファン・ボーナーもいたよ」

――その間、グラップリングの大会に出たことはありますか。

「あるよ、もちろん。ギもノーギもどっちもやってきた。アーノルド・クラシックのノーギ・アマチュア、ギではブルーベルトで優勝した。グレイシー・ナショナルスでも優勝しているし、結構やっているんだ。今もグラップリングは好きだけど、MMAに専念している。5年前に作ったジムでの指導もあるし、自分の練習もある。MMA以外のことをするには時間が足らないね」

――ところで、日本ではハードコア・ファンはトーレス選手の来日を今か今かと待ち望む声が高かったです。特に修斗ファンはDVDやCS中継であなたの試合を見ているので北米タイトルを取ったときは、いよいよか――という声が挙がりました。

「う~ん、日本には行きたかったけど、ビジネスとして成立しなかったんだ。ジムでの指導、関連商品の販売など、日本に行って戦うよりホームタウンにいたほうが稼ぎになったから。でも日本は僕にとって憧れの地だったんだ。ハヤト・サクライ、ゲンキ・スドーは僕のアイドルだったし、ハツ・ヒオキも好きなファイターだ。今は何といっても、シンヤ・アオキの大ファンだ」

――IHCで修斗の北米王者になったあとも地元を中心に戦い、AFCを経由し昨年BORDOGと契約をしました。既にWEC がズッファに買収され、軽量級にスポットを当てるようになっていたなかで、どうしてボードッグを選択したのでしょうか。

「僕の教え子のエディ・ワインランドがWEC世界バンタム級チャンピオンだったからなんだ。エディは凄く可能性のあるファイターだったけど、青かった。チェイス・ビービに負けて、練習に来なくなってしまったんだ。それからしばらくして、僕の方にもWECから連絡があった。ボードッグとはカナダでライアン・ディアズ戦を含め、3 度も試合がキャンセルされた。僕は家族を養っていかないといけないのに、時間とお金を失っただけだった。WECから連絡があって本当に良かったよ。WECは北米だけでなく日本、そしてブラジルからも実力者が集まっている。今、僕のウェイトでは一番タフなプロモーションになっていると思うよ」

――ハニ・ヤヒーラ、ウィル・ヒベイロというブラジル人は手強そうですね。

「どっちと戦っても、僕はエキサイティングな試合になると思う。楽しみだよ」

――日本では山本KID徳郁選手が、バンタム級で戦っていきたい、WECのチャンピオンと戦いたいと公言しています。

「彼はユライアと戦いたいって言っていたよね。KIDヤマモトは本当に強いファイターだ。修斗で戦っていた頃から、とんでもなく強かった。そんな彼が僕の階級になり、僕を意識してくれるのなら嬉しいね。WECは世界のベストファイターが揃っているから、KIDもWECにやってきてほしい」

――KID選手と戦うなら、WECで戦いたいということですか。 日本ではなく。

「ファイトマネーが高い方で戦いたいよ。それが僕にとって、良い場所っていうわけさ。どうせなら、最も自分の価値を認めてくれる場所で戦いたい。ファイターなら誰もが、そう思うはずだよ」

――TUFでUFC人気が爆発しても、UFCにはトーレス選手の階級はありませんでした。MMA人気が高まるなかで、あまり注目されない軽量級にいて、MMA人気の上昇する様子をどのように捉えていましたか。

「僕の階級もいずれ脚光を浴びる。そう信じていた。だから、MMAをやめようとかそういう風に思ったことは一度もないよ。現実を見つめつつ、希望を失うことはなかった。僕が初めて試合をしたのはバーの中で、たった10人ほどの観客しかいなかった。それが20人になり、40人になり、どんどん増えてきた。そんなファンに満足してもらうよう、僕も戦ってきたつもりだ」

――このビジネスの好調さを背景にすぐに大金が手に入ると思い、また口にするファイターも少なくないですが、トーレス選手はビジネスになる以前のMMAを肌で知っているわけですね。

「バーで戦い、ジムで戦い、公共の体育館で戦ってきた。そして、とうとうナショナルTVでライブ中継される大会、1万2000人のファンの前で戦うことができた。すぐにそういうステージで戦えるほうが良いと思う人間もいるだろうけど、急ぎすぎてはダメだ。一気にたくさんのプレッシャーを感じると、自分を失うことになる。いろいろ経験してきて、今、この場所に立っていることを幸せに思うよ」