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Special The Fight Must Go On イワン・ゴメス インジオ エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー カーロス・グレイシー ジョアォン・アルベウト・バヘット ジョルジ・グレイシー ブログ ペドロ・エメテリオ.ルイージ・フランサ・フィリョ 前田光世 矢野武雄

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─

01【写真】1956年当時のオズワウド・ファダ、ブラジル北部ではバーリトゥードが頻繁に行われた時代──ファダはグレイシー・アカデミーに対抗戦を持ちかけていた(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第16弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.02をお送りします。

世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術とは……。

<MMA歴史探訪。伝えられなかったもう一つのコンデ・コマから伝わった柔術─01─はコチラから>


右からカーウソン、エリオ、カーロス、1人おいてジョアォン・アルベウト・バヘット

右からカーウソン、エリオ、カーロス、1人おいてジョアォン・アルベウト・バヘット

グレイシー・アカデミーがリオブランカ通りに開かれる5年前、1920年にオズワウド・バチスタ・ファダはこの世に生を受けた。

ファダが柔術に出会ったのは、1937年のこと。当時17歳だったファダは、ブラジル海軍でボクシングの練習をしていた折り、海兵が見たこともない格闘技の訓練をしているのを目にした。

それこそが前田光世の格闘術を学んだルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。何もコンデ・コマはベレンでグレイシー兄弟だけに指導したわけでなく、またカーロスのように前田から授かった柔術を他の人間に教える立場になる人間がいてもおかしくない。さらにいえば日本からブラジルに渡り、そのままブラジルに骨をうずめた柔道家もコンデ・コマ一人ではない。

インジオのバーリトゥード

インジオのバーリトゥード

関口流柔術から講道館に入門し、第日本武徳会柔道教授となった磯貝一十段の教え子といわれる矢野武雄。

彼の下からは柔術家ではなくイワン・ゴメス、フランシスコ・ペレイラ・ダ・シウバ=インジオという1950年代を代表するバーリトゥード・ファイターが育ち、ビニシウス・フアス~マルコ・フアスというルタリーブリに通じる人脈に、サタケ(佐竹信四郎か?)という講道館柔道が関係しているという話もある。

ペドロ・エメテリオ✖ヴァウデマウ・サンタナの柔術マッチ

ペドロ・エメテリオ✖ヴァウデマウ・サンタナの柔術マッチ

ホリオン・グレイシー編纂の柔術&バーリトゥード史における1950年代とは木村政彦✖エリオ・グレイシー、エリオ・グレイシー✖ヴァウデマウ・サンタナ、カーウソン・グレイシー✖ヴァウデマウ・サンタナが重大出来事だ。

しかし、実際にはジョアォン・アルベウト・バヘッド、ペドロ・エメテリオらも含めグレイシーアカデミーの精鋭が活躍したリオやサンパウロよりも、バーリトゥードはブラジル北部・東北部で盛んだった。

ここでトップとして活躍していたファイターのルーツを辿ると、必ずといって良いほどパラ州ベレンの前田、リオグランデノルチ州の矢野、そしてバイーア州のカズオ・ヨシダなる日本の柔道家を源流としていたという。

ジョルジ・グレイシー

ジョルジ・グレイシー

その前田光世をルーツし、リオデジャネイロに伝わった柔術はカーロス・グレイシーとエリオ・グレイシーは今も昔も変わらず、裕福な人が住むリオ南部に広め、彼らと確執した四男ジョルジ・グレイシーはサンパウロへ。

ブラジルの商都にはカーロス&エリオ派からガスタォンJrがアカデミーを出し、カーロスが見出しエリオが育てた小兵エメテリオがグレイシー柔術を広めていた。

リオ北部で柔術の普及にファダは務めた

リオ北部で柔術の普及にファダは務めた

そんなかルイージ・フランサ・フィリョの下で柔術を学んだファダは、南リオのヒキーニョ(金持ち)がスブービオと蔑むリオデジャネイロの北部地区で柔術の普及に生涯を捧げていた。

その一方で、リオを離れたルイージ・フランサ・フィリョの足跡を知る者はいない……。

Jiu-jitsu e a queda de compexos=ジウジツ・イ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス(誰にでもできる柔術)──という想いとともに、人生を柔術に捧げたマスター・ファダとスブービオ柔術の歴史を振り返りたい。

──ここからは2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を再録及び加筆してお送りします──

コパカバーナ、イパネマ、巨大なキリスト像が1年中夏の暖かい陽射しを浴びるコルコバートの丘。日本人にとってリオデジャネイロとは、これらの観光スポットを指すだろう。 
一般の人よりも、ずっとずっとリオに詳しいブラジリアン柔術家、あるいは愛好家なら、レブロン、ラゴア、バッハなど有名柔術アカデミーがある街の名前もインプットされるに違いない。

ここに挙げた街の名前は、遥か頭上で両手を広げているキリスト像の眼が届く範囲、つまりリオの一部でしかない。日本でも購入できるガイドブックに地図が掲載され、明るく楽しいイメージを持つ(実際には数々のファベイラがあり危険度は年々高まっている)、リオの表の顔だ。

リオデジャネイロにはキリスト像が背を向けた裏側が存在する。ベントヒベイロ、ヴィラダペーニャ、カスカドゥラ、ハモス、マドレーラら日本人にはまるで聞き覚えなない名を持つリオの北側の地域。バッハやイパネマに住むカリオカは、それらの街の名を一つ、一つ挙げることはない。

彼らは「スブービオ(郊外)」という総称で、リオの北側の街々を呼ぶだけだ。本当のところはどうか分からないが、スブービオには蔑称に近い響きが感じられる。きっと意識外のところで、南側の人間はスブービオに住む人々を蔑んでいるはずだ。例外はあるとしても一般的に南は裕福な地域で、スブービオは貧しい――。スブービオの住民は南の住民のことをヒキーニョ(金持ち)と呼んでいる。

スブービオの人間の前で、ヒキーニョが「スブービオは道がごちゃごちゃで、どこに危険が転がっているか分からないから、車で行きたくない」と、平気な顔をして言ってのけたことがあった。この2人は柔術やMMAを通じて信頼しあった友人関係があるとしか、第三者であり外国人の自分には見えなかったのだが。 

この時スブービオの人間は、少し困ったような笑顔を浮かべていた。ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、ヒクソン・グレイシーとウゴ・デュアルチがストリートファイトを行なった──バッハのぺぺビーチに行くときに、何度も同じ場所を行ったり着たりしたことがある。

M・Dは、ヒキーニョのM・Aとは対照的に、高級住宅街を走り慣れていなかった。ようやくビーチに辿り着くと、「こっちの連中は毎日、ビーチバレーとサーフィン、パーティだ。親が金持ちで良かったよな」と眩しいばかりの陽の光から視線をずらして呟いていた。その言葉の響きには、確かにビーチで遊ぶ人々に対して怒気が感じられた。

話が横道に逸れすぎたかもしれない。オズワウド・ファダと彼らの柔術が世に伝わってこなかったのは、つまりは……こういうことだ。地球の裏側に住む、我々には想像もつかない、同じリオデジャネイロという都市の住人の感情の持ち方。貧富の差が生んだ地域格差は、言うまでもなく簡単にカタがつくような問題ではない。グレイシーはヒキーニョで、オズワウド・ファダはスブービオの人間だった――。

<この項、続く>

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Special The Fight Must Go On エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー カーロス・グレイシー コンデ・コマ ブログ 前田光世

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。伝えられなかったもう一つのコンデ・コマから伝わった柔術─01─

01【写真】グレイシー・アカデミーに挑戦を表明したファダ(中央)と生徒たち、1954年とされる (C) MMAPLANET

02国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。

個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第14弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返ってみたい。

世界に伝わらなかったもう一つ、前田光世からブラジルに伝わった柔術とは……。


031904年、講道館より富田常次郎を団長とした柔道使節団が渡米し、その一員だった前田は米国、英国、フランス、ベルギー、キューバ、メキシコ、南米諸国で他流試合を繰り返し、スペインでコンデ・コマの異名を持つようになる。

その後、ブラジルに渡り2017年にベレンで土地の有力者ガスタォン・グレイシーの長男であるカーロス・グレイシーがコンデ・コマに柔術の指導を受ける。リオデジャネイロに移ったカーロスは、オズワウド、ガスタォン、ジョルジ、そしてエリオの4人の弟に柔術を指導し始め、1925年にリオのリオブランカ通りにグレイシー・アカデミーを創設する。

左からエリオ、カーウソン、カーロス

左からエリオ、カーウソン、カーロス

その後、五男エリオがバーリトゥード(何でもあり)や柔術マッチで戦い、他競技との戦いに勝利することグレイシー柔術を広めた。

この間、木村政彦に柔術マッチで敗れたエリオだが、柔よく剛を制す、小さい者が屈強な相手を倒すという護身ベースの格闘術を大いに発展させた。

年老いたエリオに代わり、カーロスの息子カーウソン・グレイシーがエリオを破ったヴァウデマウ・サンタナに一族としてリベンジを果たし、グレイシー最強の座に就く。

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

一族最強の座は若くして夭逝したカーウソンと同じカーロスの息子ホーウス、エリオの三男ヒクソンに継がれる。

ヒクソンはバーリトゥードでレイ・ズールという強豪を連破。

さらにリオのペペビーチで天敵ルタリーブリのウゴ・デュアルチをストリートファイトで破り、グレイシー柔術の地位をブラジル国内で絶対のモノにする。

これらグレイシーの歴史は、1993年11月28日に第1回UFCを開催したエリオの長男ホリオンが、六男ホイスの優勝でグレイシー名を世界に広めるのと同時に、発信したグレイシー柔術の歴史だ。

UFCとホイスの優勝で柔術を知ったブラジル以外のメディアや格闘技関係者は、ホリオンとホイスの語るエリオ・グレイシー中心の柔術物語を柔術正史として受け止めるしか術はなかった。

その後、ホリオンが語らなかった柔術の歴史も、徐々に紐解かれていく。一族最強を継承した兄弟カーウソンとホーウスは、それぞれが指導者となり、前者はグレイシーの世を持たない一族外で柔術家を育成し、後者は弟たち、従弟、甥と一族内のリーダーとなる。彼の死後に彼を継いだカーロスJrが、グレイシーバッハという柔術界の講道館といっても過言でない道場ネットと組織を創り上げた。

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

カリーニョス(カーロスJr)はブラジル国内でCBJJと組織を発足させ、今や世界の競技柔術を司るIBJJFに発展している。

CBJJが生まれる以前から21世紀に初頭の競技柔術、UFC前のバーリトゥードでブラジル国内を席巻したがカーウソンの教え子たちだ。

エリオの息子たちは四男のホウケウを除くと、80年代から90年代に米国を目指した。

1980年代にカーロス直系のグレイシーバッハ、カーウソン、そしてエリオ系のグレイシー・ウマイタとグレイシー柔術内に3つの軸が確立され、その3派とも違った特色を持つパワーハウスがあったことで、UFCで広まった柔術は一時の流行に終わらず、しっかりと世界中に根付く大きな要因になっていることは間違いないだろう。

ここで柔術もMMAもグレイシーによって知った我々メディアは、MMAと柔術の余りにも劇的な発展と伝播を追うことで、自分たちの目の前で世界に広まった競技に対して、その成り立ちに大きな穴が開いていることを、10年以上も気付かなかったのである。

コンデ・コマにはグレイシー以外の教え子がいて、然り。その教え子がグレイシー一族の手によらない、コンデ・コマに終わった柔術をブラジルで指導していてもおかしくないということを……。

06グレイシーの流れをくまない、もう一つの柔術──ファダ柔術は確かに存在していた。グレイシーによりブラジル国内から世界中に広まった柔術では、もう一つの柔術の存在はまるで黒歴史のように語り継がれることはなかった。

この忘れ去られていたもう一つの柔術が、再び脚光を浴びるようになったのは、皮肉にも「庶民」へ、「誰でも出来る」柔術の普及に生涯を捧げたオズワウド・バチスタ・ファダ師範が84年と8カ月に及ぶ、その生涯の幕を2005年に4月に閉じたことによってだった。

<この項、続く>