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【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。マスター・ファダとスブービオ柔術よ、永遠に─03─

JIU-JITSU do SUBURBIO 01【写真】ファダにとって、誰もが教わることができる──生きる術として柔術を指導していた (C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.03をお送りします。

JIU-JITSU do SUBURBIO 02世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術、オズワウド・ファダが伝えたスブービオ柔術とは。

<MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─はコチラから>


1920年、ベントヒベイロで生まれたファダは、17歳のときに始めて道衣に袖を通した。ブラジル海軍で南米王者の肩書きを持つバルタザゥ・カルドッソの下でボクシングのトレーニングをしていた彼が目にした、海兵が見たこともない格闘技の訓練こそコンデ・コマの教えを受けたルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。

すぐにフランサを師事した彼は、5年後の1942年に黒帯となり、アカデミア・ファダをベントヒベイロの街に創る。もちろんファダはリオの中心で、リッチ層を相手に柔術の指導を行うアカデミア・グレイシーの存在を知っていた。

知っていたからこそ、彼はスブービオの複数の地域で「庶民のため」に柔術を指導するようになる。グレイシーはファダ柔術を蔑み、「あんなもの」という態度をあからさまにしたという。

ファダと弟子たちは、怒気も露に新聞各紙を通して、グレイシーに挑戦状を叩きつける。そして1954年、ファダの弟子たちはグレイシー・アカデミー内で、エリオの弟子と対抗戦を行い、ファダの教え子ジョゼ・ギマラエスがエリオの弟子レオニダスを絞め落とした――、というのがファダ側の言い分だ。実際にヘビスタ・ドスポルチ誌上で、勝利宣言を行っている。

ただ、この話をグレイシー側に改めて問うと「話をしただけで、本当の対抗戦など行われなかった」(ジョアォン・アルベウト=エリオの一番弟子)という返答が返って来た。

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

道場内の試合なので公式戦ではないという意味かもしれないし、ファダ側に言い分にしてもたった一人の勝利だけがクローズアップされているような感もないでない。

この道場マッチが灰色決着だったのとは対照的に、1955年には公衆の面前で、アカデミア・グレイシーとアカデミア・ファダの対抗戦が行われている。

カーウソン・グレイシーがヴァウデマー・サンタナを相手にエリオのリベンジを果たした日、前座試合でファダの一番弟子アデウバウ・バチスタが出場し、柔術マッチでグレイシー・アカデミーのペドロ・ヴァレンチと対戦した。

結果は時間切れドロー、この一戦を最後に、リオデジャネイロ州選手権が活発に開かれるようになる1980年代まで、ファダとグレイシーの接点は見られない。

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

ファダは北へ、グレイシーは南へ戻り、自らのテリトリーで、それぞれの選択に沿った柔術の普及に勤しむようになる。

「庶民のため」の柔術から、ファダの柔術哲学は「誰にもできる」柔術へ一歩、歩を進めていた。そんなファダの弟子のなかにはロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントスという青年がいた。トルペドの愛称で親しまれた彼は、交通事故で両足をなくしスケードボードのような、小さな車輪のついた木の板で移動を余儀されていた。

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

心も塞ぎかちだったトルペドはファダの下で柔術の練習を始め、心の病を克服。

「僕も試合がしたい。ハンディキャップがない相手と戦いたい」とファダに訴えた。1960年にバイーアで、トレペドは柔術ではなくバーリトゥードに出場。マタレオンで一本勝ちを収める。

トレペドはこの後、ファダ柔術の象徴となり、ボリビア、ペルー、大西洋を北上して渡り、フランスで柔術のデモンストレーションを行うまでになったそうだ。

1970年代に入り、ファダの一番弟子だったモニーゥ・サラマォンがヴィラダペーニャで独立。

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

その後もヘセンジがパブナに、ジェラウド・フローヒスもヴィラダペーニャに自らの道場を開設したように次々と弟子たちが道場を開いたことで、ファダはグレイシーが創設したグアナバラ州協会(のちのリオ州協会)とは別に、スブービオ内の協会を結成した。

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

ファダの柔術協会では「誰にでもできる」柔術の特徴として、少年クラスの充実は目を見張るものがあった。

「当時はね、優勝してもメダルもトロフィーもなくて、子供たちに人気のあったゼリーが優勝商品なんだ」と振り返るのはフローヒスの下で柔術を始め、後にメーロ・テニスクルービーで最強の子供クラスの柔術を創り上げるヴァンデウ・アレッシャンドリ(※レオ・サントスの師)だ。

彼やサラマォンの愛弟子ジュリオ・セザー(※後にGTFでホドウフォ・ヴィエイラや多くの強豪柔術家を育てる指導者に。現役時代はスブービオ柔術の代名詞である足関節=シャウジペニャの名手)も、ゼリー目当てで一流柔術家の一歩を歩み始めた口だった

1980年代を迎えると、南のグレイシーもカーウソンを筆頭に富裕層以外への指導を始め、柔術界はすそ野を一気に広めることとなる。

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

結果、競技人口が増えることでトーナメントの数も飛躍的に増加した。そして南と北の柔術が、一つのルールで対峙する時を迎える。

ただし、当時の最大の大会であったグアナバラ州選手権でエリオ・グレイシーから「ファダのところの選手とは戦えない」という発言があるなど、両者の間には確かな溝が存在していた。

柔術を名乗っていても、技術的にも両者には違いが見られた。当時の柔術界は道場間の交流はほぼ見られず、それぞれが特色を持った時代でファダ~サラマォンの柔術では、グレイシーが力を入れていなかった足関節が発達していた。

足関節はグレイシー系の柔術を学んだ者にとっては、卑怯者が使う技というイメージがあり、前述したセザーなどは幼少の頃に、グレイシー系の柔術家からはスブービオ柔術の選手に足関節を揶揄しつつ、多分に差別的表現が用いられた野次を常に会場で耳にしていたことを明かしている。

この傾向は1990年代に柔術が米国で普及し始めた時に、ストレート・フットロックで勝つ米国人に対し、ブラジル勢が大ブーイングを送るほど、根強く残った柔術の一面だ。

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

「当時の柔術にはスイープにはポイントがなく、足関節で失敗して相手に立たれてもポイントを失うことがなかったんだ。

同時に僕らは攻め以上に防御の練習をしたし、アカデミーの練習でケガをするなんてことはなかった。ディフェンスも発達していたから、極まらなかった場合は逃げた相手のバックを取るとか、足関節を足関節で終わらせない技術を持っていたしね。今の柔術は外掛けが禁止になったから、足関節は凄く限定的な技になった。現代柔術は足関節だけでなく、そこから次の動きも失ってしまったんだ」(2005年8月1日、ジュリオ・セザー)。

トランジッションとしての足関節。このインタビューから10年を過ぎた頃に、ジョン・ダナハー門下のエディ・カミングス、ゲイリー・トノンらがサドル・ポジションというトランジッションと足関節を駆使して旋風を巻き起こすことになる。実際に使われていた技術がいかようなものだったか今や知るすべはないものの、1980年代のスブービオ柔術では技の繋ぎとしての足関節を有していたことはニヤリとしてしまう。

足関節を巡る技術的対立、そして政治的な部分での折り合いの悪さは結局、富める者=南の柔術が北の柔術を統べることとなっていく。その大きな要因の一つにファダが、弟子に柔術界の動向を任せたかのように、表舞台に立たなくなったことが挙げられる。

そしてスブービオ柔術は、南側の人間の露になった軽蔑の視線、言動から逃れるために彼ら独自のテクニックを封印して技術的にも南側へ歩み寄り、競技運営のイニシアチブも南の人間に決定的に譲ることとなった。

グレイシーとは対照的に、一族内に後継者を育むことに力を入れていなかったファダは、カーロス・グレイシーJrによる国レベルの連盟発足を直後に控えた1990年、48年間続いたアカデミーの門を閉じている。

1994年、スブービオに進出してきたカーウソン・グレイシーの教え子セバスチャオン・ヒカルドから黒帯を授かっていたアレッシャンドリは北側で最大勢力を誇るようになったメーロ・テニスクルービー勢を率いて、カーウソン・グレイシー系のアンドレ・ペデネイラスと合体、北と南の柔術が手を結びノヴァウニオンを結成した。この後、技術的にもスブービオ特有の技術、南リオの柔術家が得意とする技など存在しなくなり、ブラジリアン柔術には北も南もなくなった。ここにスブービオ柔術は、52年の歴史に終止符を打ったといえよう。

ノヴァウニオンが誕生する前年にはUFCがホリオン・グレイシーの手によりスタートし、柔術は世界への伝播を始めた。この時にホリオン・グレイシーの語る柔術正史のなかに、当然のようにスブービオ柔術もオズワウド・ファダの名が確認されることはなかった。事実上グレイシー系=南が、北=スブービオを統一したという見方が成り立つ。

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

ブラジルのメディアでいえば、その担い手の多くが南リオの人間の手によって発刊されており、ファダ柔術という文字が雑誌に載ることもなかった。2005年4月1日、マスター・ファダが亡くなるまで。

ファダとスブービオ柔術は柔術界に何を残したのだろうか。

答は明白だ。ムンジアルやMMAで活躍するブラジル人選手は南リオの富裕・中流層ばかりでない。南リオ自体がブラジル最大級のフェベイラが点在するようなり、その貧しさの中から柔術やMMAで人生を切り開いた選手がどれだけ存在していることか。

柔術でいえば競技柔術としての側面を見てみても、幼年クラスの充実ぶりは目を見張るものがある。

オズワウド・ファダの夢、目指した未来──「ジウジツ・エ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス」(誰にでもできる柔術)は結実し、スブービオ柔術の息吹は、今日も柔術会場でブラジル各地のアカデミーで吹き続けている。

追記──今回、2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を加筆したうえで再録させてもらったが、あれから15年を経て、2014年のFIFAワールドカップ、2016年のリオデジャネイロ五輪後には北のスブービオと南のヒキーニョの経済格差は、さらに広まっているということをリオの旧友M・Dに教えてもらった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、格闘技メディアとして活躍後──MMAへの造詣の深さと英語力を買われ、某巨大MMA組織の支社で働くようになった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

そして、今ではM・Aと同じバッハ・デ・チジューカの住民になっている。

「今でもバッハでは道を間違ってばかりだよ」と笑う彼もまた、柔術が誰にでもできる時代になったことで、人生を切り開くことができた1人だ。
Special thanks to Andre Araujo, Martins Denis and Rosa Fadda

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Special The Fight Must Go On イワン・ゴメス インジオ エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー カーロス・グレイシー ジョアォン・アルベウト・バヘット ジョルジ・グレイシー ブログ ペドロ・エメテリオ.ルイージ・フランサ・フィリョ 前田光世 矢野武雄

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─

01【写真】1956年当時のオズワウド・ファダ、ブラジル北部ではバーリトゥードが頻繁に行われた時代──ファダはグレイシー・アカデミーに対抗戦を持ちかけていた(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第16弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.02をお送りします。

世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術とは……。

<MMA歴史探訪。伝えられなかったもう一つのコンデ・コマから伝わった柔術─01─はコチラから>


右からカーウソン、エリオ、カーロス、1人おいてジョアォン・アルベウト・バヘット

右からカーウソン、エリオ、カーロス、1人おいてジョアォン・アルベウト・バヘット

グレイシー・アカデミーがリオブランカ通りに開かれる5年前、1920年にオズワウド・バチスタ・ファダはこの世に生を受けた。

ファダが柔術に出会ったのは、1937年のこと。当時17歳だったファダは、ブラジル海軍でボクシングの練習をしていた折り、海兵が見たこともない格闘技の訓練をしているのを目にした。

それこそが前田光世の格闘術を学んだルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。何もコンデ・コマはベレンでグレイシー兄弟だけに指導したわけでなく、またカーロスのように前田から授かった柔術を他の人間に教える立場になる人間がいてもおかしくない。さらにいえば日本からブラジルに渡り、そのままブラジルに骨をうずめた柔道家もコンデ・コマ一人ではない。

インジオのバーリトゥード

インジオのバーリトゥード

関口流柔術から講道館に入門し、第日本武徳会柔道教授となった磯貝一十段の教え子といわれる矢野武雄。

彼の下からは柔術家ではなくイワン・ゴメス、フランシスコ・ペレイラ・ダ・シウバ=インジオという1950年代を代表するバーリトゥード・ファイターが育ち、ビニシウス・フアス~マルコ・フアスというルタリーブリに通じる人脈に、サタケ(佐竹信四郎か?)という講道館柔道が関係しているという話もある。

ペドロ・エメテリオ✖ヴァウデマウ・サンタナの柔術マッチ

ペドロ・エメテリオ✖ヴァウデマウ・サンタナの柔術マッチ

ホリオン・グレイシー編纂の柔術&バーリトゥード史における1950年代とは木村政彦✖エリオ・グレイシー、エリオ・グレイシー✖ヴァウデマウ・サンタナ、カーウソン・グレイシー✖ヴァウデマウ・サンタナが重大出来事だ。

しかし、実際にはジョアォン・アルベウト・バヘッド、ペドロ・エメテリオらも含めグレイシーアカデミーの精鋭が活躍したリオやサンパウロよりも、バーリトゥードはブラジル北部・東北部で盛んだった。

ここでトップとして活躍していたファイターのルーツを辿ると、必ずといって良いほどパラ州ベレンの前田、リオグランデノルチ州の矢野、そしてバイーア州のカズオ・ヨシダなる日本の柔道家を源流としていたという。

ジョルジ・グレイシー

ジョルジ・グレイシー

その前田光世をルーツし、リオデジャネイロに伝わった柔術はカーロス・グレイシーとエリオ・グレイシーは今も昔も変わらず、裕福な人が住むリオ南部に広め、彼らと確執した四男ジョルジ・グレイシーはサンパウロへ。

ブラジルの商都にはカーロス&エリオ派からガスタォンJrがアカデミーを出し、カーロスが見出しエリオが育てた小兵エメテリオがグレイシー柔術を広めていた。

リオ北部で柔術の普及にファダは務めた

リオ北部で柔術の普及にファダは務めた

そんなかルイージ・フランサ・フィリョの下で柔術を学んだファダは、南リオのヒキーニョ(金持ち)がスブービオと蔑むリオデジャネイロの北部地区で柔術の普及に生涯を捧げていた。

その一方で、リオを離れたルイージ・フランサ・フィリョの足跡を知る者はいない……。

Jiu-jitsu e a queda de compexos=ジウジツ・イ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス(誰にでもできる柔術)──という想いとともに、人生を柔術に捧げたマスター・ファダとスブービオ柔術の歴史を振り返りたい。

──ここからは2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を再録及び加筆してお送りします──

コパカバーナ、イパネマ、巨大なキリスト像が1年中夏の暖かい陽射しを浴びるコルコバートの丘。日本人にとってリオデジャネイロとは、これらの観光スポットを指すだろう。 
一般の人よりも、ずっとずっとリオに詳しいブラジリアン柔術家、あるいは愛好家なら、レブロン、ラゴア、バッハなど有名柔術アカデミーがある街の名前もインプットされるに違いない。

ここに挙げた街の名前は、遥か頭上で両手を広げているキリスト像の眼が届く範囲、つまりリオの一部でしかない。日本でも購入できるガイドブックに地図が掲載され、明るく楽しいイメージを持つ(実際には数々のファベイラがあり危険度は年々高まっている)、リオの表の顔だ。

リオデジャネイロにはキリスト像が背を向けた裏側が存在する。ベントヒベイロ、ヴィラダペーニャ、カスカドゥラ、ハモス、マドレーラら日本人にはまるで聞き覚えなない名を持つリオの北側の地域。バッハやイパネマに住むカリオカは、それらの街の名を一つ、一つ挙げることはない。

彼らは「スブービオ(郊外)」という総称で、リオの北側の街々を呼ぶだけだ。本当のところはどうか分からないが、スブービオには蔑称に近い響きが感じられる。きっと意識外のところで、南側の人間はスブービオに住む人々を蔑んでいるはずだ。例外はあるとしても一般的に南は裕福な地域で、スブービオは貧しい――。スブービオの住民は南の住民のことをヒキーニョ(金持ち)と呼んでいる。

スブービオの人間の前で、ヒキーニョが「スブービオは道がごちゃごちゃで、どこに危険が転がっているか分からないから、車で行きたくない」と、平気な顔をして言ってのけたことがあった。この2人は柔術やMMAを通じて信頼しあった友人関係があるとしか、第三者であり外国人の自分には見えなかったのだが。 

この時スブービオの人間は、少し困ったような笑顔を浮かべていた。ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、ヒクソン・グレイシーとウゴ・デュアルチがストリートファイトを行なった──バッハのぺぺビーチに行くときに、何度も同じ場所を行ったり着たりしたことがある。

M・Dは、ヒキーニョのM・Aとは対照的に、高級住宅街を走り慣れていなかった。ようやくビーチに辿り着くと、「こっちの連中は毎日、ビーチバレーとサーフィン、パーティだ。親が金持ちで良かったよな」と眩しいばかりの陽の光から視線をずらして呟いていた。その言葉の響きには、確かにビーチで遊ぶ人々に対して怒気が感じられた。

話が横道に逸れすぎたかもしれない。オズワウド・ファダと彼らの柔術が世に伝わってこなかったのは、つまりは……こういうことだ。地球の裏側に住む、我々には想像もつかない、同じリオデジャネイロという都市の住人の感情の持ち方。貧富の差が生んだ地域格差は、言うまでもなく簡単にカタがつくような問題ではない。グレイシーはヒキーニョで、オズワウド・ファダはスブービオの人間だった――。

<この項、続く>

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Special The Fight Must Go On エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー カーロス・グレイシー コンデ・コマ ブログ 前田光世

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。伝えられなかったもう一つのコンデ・コマから伝わった柔術─01─

01【写真】グレイシー・アカデミーに挑戦を表明したファダ(中央)と生徒たち、1954年とされる (C) MMAPLANET

02国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。

個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第14弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返ってみたい。

世界に伝わらなかったもう一つ、前田光世からブラジルに伝わった柔術とは……。


031904年、講道館より富田常次郎を団長とした柔道使節団が渡米し、その一員だった前田は米国、英国、フランス、ベルギー、キューバ、メキシコ、南米諸国で他流試合を繰り返し、スペインでコンデ・コマの異名を持つようになる。

その後、ブラジルに渡り2017年にベレンで土地の有力者ガスタォン・グレイシーの長男であるカーロス・グレイシーがコンデ・コマに柔術の指導を受ける。リオデジャネイロに移ったカーロスは、オズワウド、ガスタォン、ジョルジ、そしてエリオの4人の弟に柔術を指導し始め、1925年にリオのリオブランカ通りにグレイシー・アカデミーを創設する。

左からエリオ、カーウソン、カーロス

左からエリオ、カーウソン、カーロス

その後、五男エリオがバーリトゥード(何でもあり)や柔術マッチで戦い、他競技との戦いに勝利することグレイシー柔術を広めた。

この間、木村政彦に柔術マッチで敗れたエリオだが、柔よく剛を制す、小さい者が屈強な相手を倒すという護身ベースの格闘術を大いに発展させた。

年老いたエリオに代わり、カーロスの息子カーウソン・グレイシーがエリオを破ったヴァウデマウ・サンタナに一族としてリベンジを果たし、グレイシー最強の座に就く。

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

一族最強の座は若くして夭逝したカーウソンと同じカーロスの息子ホーウス、エリオの三男ヒクソンに継がれる。

ヒクソンはバーリトゥードでレイ・ズールという強豪を連破。

さらにリオのペペビーチで天敵ルタリーブリのウゴ・デュアルチをストリートファイトで破り、グレイシー柔術の地位をブラジル国内で絶対のモノにする。

これらグレイシーの歴史は、1993年11月28日に第1回UFCを開催したエリオの長男ホリオンが、六男ホイスの優勝でグレイシー名を世界に広めるのと同時に、発信したグレイシー柔術の歴史だ。

UFCとホイスの優勝で柔術を知ったブラジル以外のメディアや格闘技関係者は、ホリオンとホイスの語るエリオ・グレイシー中心の柔術物語を柔術正史として受け止めるしか術はなかった。

その後、ホリオンが語らなかった柔術の歴史も、徐々に紐解かれていく。一族最強を継承した兄弟カーウソンとホーウスは、それぞれが指導者となり、前者はグレイシーの世を持たない一族外で柔術家を育成し、後者は弟たち、従弟、甥と一族内のリーダーとなる。彼の死後に彼を継いだカーロスJrが、グレイシーバッハという柔術界の講道館といっても過言でない道場ネットと組織を創り上げた。

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

カリーニョス(カーロスJr)はブラジル国内でCBJJと組織を発足させ、今や世界の競技柔術を司るIBJJFに発展している。

CBJJが生まれる以前から21世紀に初頭の競技柔術、UFC前のバーリトゥードでブラジル国内を席巻したがカーウソンの教え子たちだ。

エリオの息子たちは四男のホウケウを除くと、80年代から90年代に米国を目指した。

1980年代にカーロス直系のグレイシーバッハ、カーウソン、そしてエリオ系のグレイシー・ウマイタとグレイシー柔術内に3つの軸が確立され、その3派とも違った特色を持つパワーハウスがあったことで、UFCで広まった柔術は一時の流行に終わらず、しっかりと世界中に根付く大きな要因になっていることは間違いないだろう。

ここで柔術もMMAもグレイシーによって知った我々メディアは、MMAと柔術の余りにも劇的な発展と伝播を追うことで、自分たちの目の前で世界に広まった競技に対して、その成り立ちに大きな穴が開いていることを、10年以上も気付かなかったのである。

コンデ・コマにはグレイシー以外の教え子がいて、然り。その教え子がグレイシー一族の手によらない、コンデ・コマに終わった柔術をブラジルで指導していてもおかしくないということを……。

06グレイシーの流れをくまない、もう一つの柔術──ファダ柔術は確かに存在していた。グレイシーによりブラジル国内から世界中に広まった柔術では、もう一つの柔術の存在はまるで黒歴史のように語り継がれることはなかった。

この忘れ去られていたもう一つの柔術が、再び脚光を浴びるようになったのは、皮肉にも「庶民」へ、「誰でも出来る」柔術の普及に生涯を捧げたオズワウド・バチスタ・ファダ師範が84年と8カ月に及ぶ、その生涯の幕を2005年に4月に閉じたことによってだった。

<この項、続く>