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Special The Fight Must Go On エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー カーロス・グレイシー コンデ・コマ ブログ 前田光世

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。伝えられなかったもう一つのコンデ・コマから伝わった柔術─01─

01【写真】グレイシー・アカデミーに挑戦を表明したファダ(中央)と生徒たち、1954年とされる (C) MMAPLANET

02国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。

個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第14弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返ってみたい。

世界に伝わらなかったもう一つ、前田光世からブラジルに伝わった柔術とは……。


031904年、講道館より富田常次郎を団長とした柔道使節団が渡米し、その一員だった前田は米国、英国、フランス、ベルギー、キューバ、メキシコ、南米諸国で他流試合を繰り返し、スペインでコンデ・コマの異名を持つようになる。

その後、ブラジルに渡り2017年にベレンで土地の有力者ガスタォン・グレイシーの長男であるカーロス・グレイシーがコンデ・コマに柔術の指導を受ける。リオデジャネイロに移ったカーロスは、オズワウド、ガスタォン、ジョルジ、そしてエリオの4人の弟に柔術を指導し始め、1925年にリオのリオブランカ通りにグレイシー・アカデミーを創設する。

左からエリオ、カーウソン、カーロス

左からエリオ、カーウソン、カーロス

その後、五男エリオがバーリトゥード(何でもあり)や柔術マッチで戦い、他競技との戦いに勝利することグレイシー柔術を広めた。

この間、木村政彦に柔術マッチで敗れたエリオだが、柔よく剛を制す、小さい者が屈強な相手を倒すという護身ベースの格闘術を大いに発展させた。

年老いたエリオに代わり、カーロスの息子カーウソン・グレイシーがエリオを破ったヴァウデマウ・サンタナに一族としてリベンジを果たし、グレイシー最強の座に就く。

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

カーウソンが一族最強だった時代。エリオは息子、甥、年の離れた従弟の指導をしていた

一族最強の座は若くして夭逝したカーウソンと同じカーロスの息子ホーウス、エリオの三男ヒクソンに継がれる。

ヒクソンはバーリトゥードでレイ・ズールという強豪を連破。

さらにリオのペペビーチで天敵ルタリーブリのウゴ・デュアルチをストリートファイトで破り、グレイシー柔術の地位をブラジル国内で絶対のモノにする。

これらグレイシーの歴史は、1993年11月28日に第1回UFCを開催したエリオの長男ホリオンが、六男ホイスの優勝でグレイシー名を世界に広めるのと同時に、発信したグレイシー柔術の歴史だ。

UFCとホイスの優勝で柔術を知ったブラジル以外のメディアや格闘技関係者は、ホリオンとホイスの語るエリオ・グレイシー中心の柔術物語を柔術正史として受け止めるしか術はなかった。

その後、ホリオンが語らなかった柔術の歴史も、徐々に紐解かれていく。一族最強を継承した兄弟カーウソンとホーウスは、それぞれが指導者となり、前者はグレイシーの世を持たない一族外で柔術家を育成し、後者は弟たち、従弟、甥と一族内のリーダーとなる。彼の死後に彼を継いだカーロスJrが、グレイシーバッハという柔術界の講道館といっても過言でない道場ネットと組織を創り上げた。

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

後列左からホイス、ヘウソン、ホリオン、チャック・ノリス、ヒリオン、ホウケウ。前列左からホイラー、ヘンゾ、ヒクソン、カーロス・マチャド

カリーニョス(カーロスJr)はブラジル国内でCBJJと組織を発足させ、今や世界の競技柔術を司るIBJJFに発展している。

CBJJが生まれる以前から21世紀に初頭の競技柔術、UFC前のバーリトゥードでブラジル国内を席巻したがカーウソンの教え子たちだ。

エリオの息子たちは四男のホウケウを除くと、80年代から90年代に米国を目指した。

1980年代にカーロス直系のグレイシーバッハ、カーウソン、そしてエリオ系のグレイシー・ウマイタとグレイシー柔術内に3つの軸が確立され、その3派とも違った特色を持つパワーハウスがあったことで、UFCで広まった柔術は一時の流行に終わらず、しっかりと世界中に根付く大きな要因になっていることは間違いないだろう。

ここで柔術もMMAもグレイシーによって知った我々メディアは、MMAと柔術の余りにも劇的な発展と伝播を追うことで、自分たちの目の前で世界に広まった競技に対して、その成り立ちに大きな穴が開いていることを、10年以上も気付かなかったのである。

コンデ・コマにはグレイシー以外の教え子がいて、然り。その教え子がグレイシー一族の手によらない、コンデ・コマに終わった柔術をブラジルで指導していてもおかしくないということを……。

06グレイシーの流れをくまない、もう一つの柔術──ファダ柔術は確かに存在していた。グレイシーによりブラジル国内から世界中に広まった柔術では、もう一つの柔術の存在はまるで黒歴史のように語り継がれることはなかった。

この忘れ去られていたもう一つの柔術が、再び脚光を浴びるようになったのは、皮肉にも「庶民」へ、「誰でも出来る」柔術の普及に生涯を捧げたオズワウド・バチスタ・ファダ師範が84年と8カ月に及ぶ、その生涯の幕を2005年に4月に閉じたことによってだった。

<この項、続く>

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SFL02 Special The Fight Must Go On アレキサンダー・シュレメンコ パット・ヒーリー ブログ ミノワマン ライアン・ヒーリー

【The Fight Must Go On】イベントプログラム・シリーズ─02─2012年4月7日、Supre Fight League@インド

SFL【写真】インドMMA界のパイオニア──Super Fight League (C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第13弾はMMAPLANET夜明け前から一転、ただ単なるイベントプログラム・シリーズ……その第2回として2012年4月7日、Super Fight League(SFL)のパンフレットを捲ってみたい。


SFLはインド初のMMAプロモーションで、この1カ月弱前にムンバイで旗揚げ興行を行ったばかり。ロンドンで生まれ育ったインド人富豪のラジ・クンドラとインドのシルベスタースタローンことサンジェイ・ダットが共同オーナーだ。クンドラは今もアジアのプロスポーツ・リーグで最も資産価値の高いクリケットのインディアン・プレミアリーグに参加するラジャスターン・ロイヤルズのオーナーでもあった(※2015年に、八百関与でクリケット連盟より永久追放される)。

SFL02発足から3カ月にして、2度目のSFLには日本からミノワマンが出場し、メインでは後のUFCファイター=トッド・ダフィー✖UFC&Bellatorベテランのニール・グローブが組まれていた。

対戦カードから分かるようにストライクフォース&UFCで活躍したパット・ヒーリーの実弟ライアンが、元UFCの英国人選手=ポール・ケリーと第1試合で戦うなど、海外からの実力者や名前のある選手が集められ、まだMMAが始まったばかりのインド人ファイターはスリランカ人と戦うという二本立てのラインナップが用意されていた。

ただしデリーから北へ5時間のドライブで到着したチャンディガールという人口100万人以上の人工都市では、選手たちが滞在するホテルのレセプションだけでなく、クシュティ(ヒンドゥーレスリング)の練習生や指導者もMMAを知らないという状況だった。

SFL03クンドラはインド映画ボリウッドの人気女優のシルパー・シェッティと結婚しており、MMAを普及させるために銀幕のスターの力を大いに使った。シェッティの妹で彼女を上回る知名度を誇るシャミターでメディアの関心を高めようとした。

試合前日のパブリック計量では、その計量結果やルールミーティングにはまるで興味を示さなかったローカル・メディアは、シェミターの登壇とともに記者席のテーブルを飛び越え、我さきにとばかりステージにかぶりつき状態に。あちらこちらで口論や、小競り合いが見られる事態に陥っていた。

SFL06イベント当日も第1試合が始まるまで、自体もパンフレットで選手以上の扱いを受けていたラッパーや歌って踊れる芸能人のステージが1時間以上も続いた。

Minowaman肝心のケージの中はインド✖スリランカ対決と、国際戦のレベルの違いは明白だったが──自分は最後まで大会取材ができたわけではなかった。

第4試合に出場したミノワマンがアレキサンダー・シュレメンコのミドルで脇腹を負傷し、病院へ向かうことに。英語と日本語が理解できる人間が、レフェリーの島田裕二さん以外にいなかったことで──カメラバックを選手の控えテントにおいて、救急車で現地の病院に向かうよう大会関係者に請われたからだ。

この救急車サスペンションがガチガチに固く、ちょっとした路面の不具合が車内に直結する。大きく車が跳ねる度にワキ腹を抑え、苦痛でうめき声をあげるミノワマンには非常に申し訳ないが、「牛が来たら、救急車も止まるのか」などと自分は考えていた。

ミノワマンが搬送された病院がまた凄かった。救急車で運ばれたミノワマンは、ストレッチャーに乗せられたままで延々と待たされ続ける。そのあげくドクターは患部を触るだけで、痛み止めを打って終ろうとする。いやいや、「彼は明日5時間のドライブから飛行機で8時間かけて東京に戻るのだから、もう少しちゃんと見てくれ」とこっちも必死になる。なんとかレントゲン撮影までこぎつけ、患部にジェリーを塗ってエコー検査のようなモノを終えると、「骨には以上がない」と満足気な表情でペインキラーを注射した。

病院についてから、かれこれ2時間半は経過していただろうか……大会はすでに終わっており、ホテルに直接戻ってきてくれとSFL関係者から携帯に電話があった。我々が宿泊していた五つ星ホテルはパキスタンと国境を接している州ということもあり、常にXレイで持ち物の検査がある……と、その時になって初めてカメラバッグを持っていないことに気付かされた。

ミノワマンのセコンドだった伊藤崇文さんも、自分のバックは見なかったという。いや、カメラとレンズで60万円以上の機材なんですけど……。焦りまくり、徐々に「伊藤さん、そこは見ておいてくれよ。あんたが英語が分からないから、俺が病院に行ったんだろう……」だとか「ミノワマン、ミドル蹴られたぐらいで怪我すんなよ」、「インドになんか来るんじゃなかった」とロビーで人間の小ささを示さんとする感情に支配しれていた。と、ミノワマンと同じ控えテントだったライアンの兄パット・ヒーリーが、「病院に行ったと聞いたから、困るだろうと思って持ってきたよ」とバッグを肩から掛けて笑顔を浮かべている。

1994年、放浪中にウィーンで現金とトラベラーズチェックを合わせて100万円ぐらい入ったウェストポーチをトイレに忘れ、1キロほど猛ダッシュでマクドナルドに戻った時に、入り口の前で「きっと慌てて取りに来ると思ったよ」と待ち構えていてくれた店員さんと、この時のパット・ヒーリー──2人の天使のような笑みを決して忘れることはない。

閑話休題。

クンドラは翌年、経営に行き詰まりSFLを手放したが、新たなオーナーの下でその活動は2017年まで続いた。SFLを中継していたインド・スタースポーツは昨年4月からONEの各大会を放映している。ONEにはインドの女子レスリング界を変えた一族からMMAに転向したリトゥ・フォーガット、インド系カナダ人で五輪レスラーのアルジャン・ブラーのという手札がある。

Brave CFは既にインド進出を果たし、SFLのリアリティTVショー出身でInvicta FCとの提携で米国デビューを済ませたマンジット・コルカーを登用。カタンタラジ・ジャカル・アガサなど国際戦で勝利する選手もでてきた。

Raj「インドで2番目に人気のあるスポーツになれば、それで十分なマーケットが存在する。SFLのターゲットは中流層の18歳から35歳。この層だけで5億人の人口がいるんだ」というクンドラの言葉が思い出される。

中国の次はインド、これはもう明白だ。

ちなみに帰国後、ミノワマンは日本で診察をうけ脇腹の骨折と診断されている──。そしてミノワマン、伊藤さん、島田レフェリー、自分、帰国してから2週間以上、下痢が続いた。

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ONE Championship Special The Fight Must Go On エミリー・チュウ ブログ

【The Fight Must Go On】All Time Monday Ring Girl Top 5→第1位 たった1度のONE台湾大会 Emily Chu嬢

16 07 11 OFC18【写真】たった1度だけというので、さらに印象に残っているのかもしれないです(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第12弾はMMAPLANET All Time Monday Ring Girlトップ5……1位のリングガールを紹介したい。

ごく一部で熱烈なファンが存在するMonday Ring Girlのトップ5を独断と偏見でチョイスしました。


MMAPLANET All Time Monday Ring Girl ──栄えあるかどうか分からないですが、第1位は2014年7月11日に開催されたONE Championship 唯一の台湾・台北大会のリングガールだ。

今回、この企画のためにONE War of Dragons、RING Girlで検索を掛けると、その名前がEmily Chuさんであることが判明。残念ながら、彼女がONEのケージサイドに姿を見せたのは、この1度だけだが、セックスアピールで勝負する風でなく、ファイトショーにおける紅一点とはまるで違ったイメージの女性でした。

特別感というか、リングガールとしては特に別な感じがあった彼女ですが、当時ゴング格闘技の編集をしていた某・亀池聖二朗くんに「すげぇ可愛い、清楚な感じのリングガールがいた」とわざわざ写真をメールすると、『僕の好みではないですねぇ。僕は東ヨーロッパ系の方が云々かんぬん』という返信が……。「ワレ、どの面下げてぬかしとんのじゃ!!」と思ったことも強烈に印象に残っています。

というわけ──で、今日初めて名前を知ったエミリー・チュウさんですが、6年を経て何をされているのか一切分からないですし、亀池のお眼鏡にかなわなかった清楚ぶりが健在なのか想像すらできないです。が、ONEが彼女を再起用することと、大好きな台北再上陸を願ってやみません。

18 07 11 OFC18 03

Emily

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HOOKnShoot Special The Fight Must Go On アレッシャンドリ・カカレコ エルミス・フランカ タクミ ブログ マイク・ブラウン マット・ヒューム 山下志功 鈴木洋平

【The Fight Must Go On】DVDチラ見─02─2001年11月17&18日、マイク・ブラウンが戦っていたのは修斗?

HnS【写真】古き良き時代と新しい時代への交差点のような大会だったHOOKnShoot KINGS (C) FIGHTWORLD.com

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第11弾は懐かしくもあり、今や秘蔵っぽさタップリのDVD紹介シリーズ、その第2回として2001年11月17&18日にインディアナ州エヴァンズビルで開催されたHOOKnSHOOT「KINGS」のDVDを紹介したい。


豪州=オーストラリア修斗、ハワイ=スーパーブロウルに続き、中西部インディアナ州でプロ修斗公式戦を組むようになった──今でいえば──フィーダーショーがHOOKnShoot(以下HnS)だ。とはいっても北米のビッグショーはUFCだけといっても過言でない時代、人口10万人強(広域都市圏では35万人ほど)の地方都市のメモリアルホールで行われていた大会は、今の北米ローカルショーとは比較にならない国際色豊かなイベントとして行われていた。

HooKとShoot、裏技とガチというプロレス隠語を合わせたネーミングのMMA大会は1996年から活動しており、いわば業界のパイオニアの一つであった。そして90年代の終わりごろ米国のマニアック層は、修斗の競技志向をリスペクトする傾向が見られ、HnSを主宰するジェフ・オズボーンもその一人だった。そんなマニアック過ぎたオズボーンを片腕として、後にBodogなど非UFC系のビッグショーのマッチメイカーやタレントリレーションズで活躍するミゲール・イトゥラテがサポートし、一介のローカルショーの域を脱するショーを2000年から2001年にかけてプロモートしていた。

イトゥラテはこの2日連続イベントからフロリダの富豪ダン・ランバートの資金援助を得るようになり、シウベイラ・ブラザース所属の3選手やコーチ陣はランバートと共にプライベート・ジェットでエヴァンズビル入りを果たしていた。

Franca vs Brownそう後のATTの原形がこの大会で見られたことになる。

シウベイラ・ブラザースから出場したエルミス・フランカは、今やATTの知恵袋として八面六臂で活躍中のマイク・ブラウン(当時はキース・ロッケル率いるアムハースト・サブミッション・アカデミー所属だった)を2分少しで三角絞めで下している。

この大会はプロ修斗公式戦を行うことで日本からTV放映料を得ていたが、HnSという大会のブランド力をアップさせたいイトゥラテの意向もあり、修斗公式戦と北米ユニファイドルールを併用したイベントでもあった。

タクミ、山下志功、鈴木洋平が日本から出場した修斗公式戦とはいえ、HnSでの修斗公式戦はインディアナ州アスレチックコミッションの認可を受けるために、当時日本で用いられていた10カウント制は採用されず、修斗インディアナ・ルールという特例ルールの下で実施されていた。

Nakayamaばかりか、この大会では競技運営面を統括していたインターナショナル修斗コミッションとプロモーションのコミュニケーション不足もあり、修斗グローブが現地になく修斗公式戦出場ファイターもハービンガー・グローブを着用していた。

結果、2001年だけで脅威の6勝目をタクミが挙げた✖ヘンリー・マタモロス戦にしても、修斗公式戦か北米ルール下でのMMAマッチか、今や映像を確認しても判別がつかない状況になってしまっている。

Shikoしかも、山下は2回戦契約だったが現地では3回戦と認識されており、2R終了後に混乱が収まらないまま3R開始に応じた山下はカーチス・スタウトに判定負けを喫している(※後日、修斗公式戦的にはノーコンテストとされたが、今も北米の主要サイトでは山下は敗北のままだ)。

このように公式戦を世界に広めようとした修斗と、尊敬心以上にビジネスとして日本のCS TVマネー欲しさで繋がったHnSとの関係は余りにも脆弱で、彼らの関係はその後2年ほどで解消される。イトゥラテはATTとより強力なタッグを組むことになり、HnSはフロリダに進出するとAbsolute FCという別名を用いるようになる。

ほどなく人が良いもののメジャー・プロモーションの経営者の資質に欠けたオズボーンと野心家イトゥラテの蜜月も終焉を迎えたものの、HnSはオズボーンの手で地元エヴァンズビルのハウスショーとして、2017年4月まで活動を続けていた。

CacarecoこのKIGS 2Daysにはイワン・フリーマン&レイ・レミディオスの後の英国UFCファイターズ、既に古豪入りが近かったカーロス・バヘット、2年後のADCC無差別級で2位となるルタリーブリのアレッシャンドリ・カカレコらが出場。

またAMCからアーロン・ライリー、アンソニー・ハムレット、クリス・モンセンを率いていたマット・ヒュームを始め、同じ中西部のエクストリーム・ファイティングのモンテ・コックス代表らがリングサイドに陣取っており、まさに古き良きNHB時代から2005年以降のMMAメインストリーム時代へのクロスロードのようなイベントだった。

Yohei & Matt現ONE副社長となったヒュームは、かつてシアトルで指導した鈴木のセコンドにも就いており、ビクター・エストラードにTKO勝ちした彼とリング上で抱き合って喜びを露にしているシーンもしっかりとDVDには収められている。

そんなHnS KINGのDVDはFightworldというオズボーンの経営するビデオ製作&販売会社から発売されていたが、彼はその映像権をUFC Fight Passに売却。そう……ここに挙げた試合は、なぜかHnS KINGS2というタイトルでファイトパスのライブラリーで視聴できるので、ぜひチェックしてほしい。

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Special The Fight Must Go On ビビアーノ・フェルナンデス ブログ

【The Fight Must Go On】あの時、〇〇が話していたこと─02─2011年6月9日、ビビアーノが話していたこと

Bibiano【写真】今から8年10カ月前のビビアーノ。さすがに若いが、その生い立ちから達観ぶりはずば抜けていた (C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第10弾は過去のインタビューで、今も印象に残っている言葉を再収録したい。あの時、〇〇が話していたこと……第2回は2011年6月9日──カナダ・バンクーバー郊外リッチモンドで取材したビビアーノ・ヘルナンデスの言葉を振り返りたい。

2011年、東日本大震災のあった日本ではPRIDE後の格闘技界をDREAMとともに引っ張ってきた戦極が活動停止となり、そのDREAMも縮小化へ。レギュラーといっても過言でなかったビビアーノも来日が半年以上途絶えていたなかで、UFCやBellator移籍もあると見られていた。

そんななかDREAMで戦うことを拘るビビアーノは、当時は余り明らかとされていなかった達観した人生哲学を語り始めた。こんな今だからこそ、あの時のビビアーノの言葉をお届けしたい。


──このような状態になってもビビアーノが、日本で戦い続けるという想いはどこから起こってくるものなのでしょうか。

「今、試合がなければ道場のことを考えている。DREAMとの契約が残っているんだから、UFCで戦いたいとかベラトールで戦ってみたいとか、そういうことは口にしたくないんだ。最初に何かを始めれば、それは最後までやり通さないといけない。DREAMからなかなか試合の機会が与えられなくても契約は彼らとの間にしか存在しないんだ。そういう大前提として存在するものを飛び越えて次の話を進めることは、人間的にも良しとしないんだ。

僕はここにいる。今、君のインタビューを受けている。その時に他のインタビューのことを考えるわけにはいかない」

──なんだか本来は当然のことなのですが、状況が状況ということがあるなかでビビアーノの義理堅さには驚くばかりです。

「だって人は今を生きているんだ。将来のことばかり考えたってね。分かるだろう?」

──自分など将来に不安を感じ、今という現実を軽視してしまいがちなのでビビアーノの言葉が胸に響きます。

「将来のことなんて何も分からないよ。今、その足下を見つめないとね。DREAMから『ビビアーノ、君はもう要らない』と言われれば、他のオプションを考える。だからDREAMがなければ……という過程の話をしてもしょうがない。僕はジャングルで生まれ育った。

僕らは生き残るために生活していて、死というものを身近に受け入れている。だから今、できることをこなし、平穏に生きたいんだ。頭をクリアにして真っすぐ歩いていくことが大切だと思っている。何かに挑戦することを大きく喧伝する連中もいるけど、僕は生きていくこと自体がチャレンジなんだ。

今の生活に不満はない。生き急いでどうなる? 早く死にたいってこと?  意味はないよ。スピードを出し過ぎた車は事故を起こして壊れてしまう。焦る必要はない。時間を掛けて生きるんだ。急いで走ってストレスを感じて、人を信じることができなくなって……一体何を恐れているの?」

──何事も生き急がないと。

「生まれてきた誰もが死ぬんだ。それだけは皆、変わりない。何を生き急ぐ必要がある?」

──マナウスやリオデジャネイロに住んでいた頃と比較して、随分と成熟したと思いませんか。

「そんなことは決してないよ(笑)。生き方は同じだけど、今のように昔は断言できることはなかったね。僕はお金のために戦ったことはない。母が亡くなって家には食べ物もお金も無くなってしまった。ある女性の家の掃除をして生きていくことになった。彼女は『いくら欲しい?』と尋ねてきたけど、『食べ物が欲しい』と答えたんだ。僕はお金を得るために生きてきたんじゃない。生きるために生きてきたんだ」

──本来はバンクーバーでビビアーノの練習などを拝見させてもらって紹介しようということが主題の取材だったのですが、このような会話になるとは思っていなかったです。

「なぜか? 今日、ここにいるからだよ。君がバンクーバーに着いたばかりなのに、僕が住んでいるラングレーにレンタカーをドライブしてくると言うので、そんなことをさせることはできないと思った」

──そのためにわざわざ、私が宿泊しているホテルまで足を運んでくれたのですね。

「自分のことを第一に考えるのなら、家で君の到着を待つだけで良かった。しかし、東京から飛行機の長旅で疲れている友人に、酷い渋滞のなかドライブなんてさせたくなかった。人生は人を思いやり、人から思いやれるもの。自分のことばかり考えて、何かを手にしていくのは実は人を思いやれないことと同じで、何も残らない空っぽな人生になる。

今、日本は大変なことになっている。でも、しっかりと気持ちを落ち着けて、自分以外の人のことを考えていくと、危険は去り、また良い時代がやってくるに違いない。そんな日本でまた戦えることを楽しみにしているよ」

──Fight & Life 2011年10月号(Vol.26)より抜粋──

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PXC Special The Fight Must Go On UFC ブログ レッド・デラクルーズ

【The Fight Must Go On】All Time Monday Ring Girl Top 5→第2位 PXC→UFC Red Dela Cruz嬢

Dela Cruz【写真】PXC時代のデラクルーズ嬢(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第9弾はMMAPLANET All Time Monday Ring Girlトップ5……2位のリングガールを紹介したい。

ごく一部で熱烈なファンが存在するMonday Ring Girlのトップ5を独断と偏見でチョイスしました。


Dela Cruz 02MMAPLANET All Time Monday Ring Girl 第2位はPXCからUFCへとステップアップを果たしたレッド・デラクルーズ嬢だ。グアム&フィリピンを本拠としていたPXCでリングガールを務め、2015年のUFCフィリピン大会のUFCガールに公募で選ばれ──晴れて世界最高峰のリングガールの座を射止めた。今ではアジア太平洋の大会はもちろん、北米の大会にも進出しておりジャン・ウェイリに次ぎUFCで成功したアジア人女性といえる。

にしても、UFCで活躍するようになってからは、ちょっとケバいかなぁというのが実際のところで、PXC時代は田中路教がデレデレになるほど爽やか感がありました。
Dela Cruz 03