【写真】25年前の格闘技通信──VJT96増刊号を手に、坂本一弘代表。思えば、当時は格闘技雑誌もガチだった。このタイトルで販売数が伸びることは考えづらい、皆が真っすぐだった時代の象徴だ(C)MMAPLANET
11月6日(土)に東京都江東区のUSENスタジオコーストでサステイン主催VTJ2021とプロ修斗公式戦=Shooto2021#07が昼夜2部制で開催される。
UFCとグレイシー柔術の出現以前、修斗にはパウンドがなく、パウンドを実践するためのポジショニングの概念が存在しない総合格闘技だった。
同様に1993年に第1回大会が開催されたUFCのように、多分に危険性をアピールするようなイベントの概念も、異種格闘技という要素も存在していなかった。UFCとグレイシー柔術との出会いは、修斗にパウンドとポジショニングをもたらしただけでなく、世界には同じような総合的な格闘技が行われているという事実との邂逅でもあった。
それは日本より強い海外勢がいる──という事実を受け入れることに通じていた。
当時はVale Tudo(※ポルトガル語で何でもあり)、NHB(No Holds Barred ※英語でやってはいけないことはない=制限なし、無条件)と呼ばれたMMAを競技として整理し、スポーツ化を推し進めた90年代後半の修斗。
修斗として競技を確立する一方で、グレイシー柔術とVale Tudoに真っ向から向かい合い、世界と戦うブランドとしてVale Tudo Japanが立ちあげられた。グレイシーのイントロダクションのようだった1994年と1995年のVJTを経て、1996年のVTJは公式戦でパウンド解禁後の修斗の精鋭たちによる世界への挑戦という舞台に昇華していた。
しかし、勝利は女子プロレスラーの堀田祐美子が挙げた1勝のみ。男子選手はルール上、時間切れはドローということでジョン・ルイスに病院遅れにされた佐藤ルミナ以外、朝日昇、エンセン井上、菊田早苗、葉山“湘南”智昭の全員が敗れた。
結果、格闘技通信の増刊号の表紙には『日本最弱』というショッキングな文字が躍った。思えばVJT96より修斗は本格的に世界と向き合うこととなり、公式戦で本格的に海外勢を招聘、世界にネットワークを広める期間となった。そして──1999年度大会でVale Tudo王国ブラジルとの対抗戦で勝ち越した。
公式戦で総合格闘技の内需拡大と富国強兵に努め、年に1度世界に挑戦する舞台がVJTだった。坂本一弘サステイン代表によると、この両者はレコードでいえばA面とB面──表裏一体であったという。そのVTJが5年2カ月振りに公式戦とダブルヘッダーで行われる。
再び、海外と明確な距離が存在するようになった、2021年のJ-MMA。1996年から1999年の4度のVTJ開催と、その間の修斗の状況を鑑みながら、『今、なぜVTJなのか』。そして『2021年の修斗』について黒豹の話を訊いた。
──坂本さん、なぜ、このタイミングでVTJなのでしょうか。
「なぜ、このタイミングなのか……。そういう風に考えると、これまでVTJが行われて来た時は、常に何かを欲している時だったと思います。言い換えると何かを求められている時で。この1年半、コロナ禍において繰り返される緊急事態宣言の下、無観客試合、制限のある有観客大会と、修斗でも色々な試みが行われてきました。
そのなかで海外の選手を、もうそろそろ招聘したい。それが可能になるのか、無理なのか。この間にハッキリすることです。ただし、ハッキリするまで指を咥えて待っていることはできない。もちろん、外国人選手を招聘できるよう働きかけます。同時に、それがやはり無理であった時も海外との対戦というキーワードを用いた大会を開きたい。
それは修斗公式戦ではなく、VTJだと。今はもうA面、B面とは言わないんでしょうけど(笑)、もうCDもない時代ですからね。でも公式戦とVTJは修斗にあって表裏一体、海外という存在を追求するために裏面を使ってみようかと思ったんです」
──それが今だったと。
「もうそこは直感ですよね」
──チャンピオンになった選手が、あれだけ海外と口にする。そこは関係していますか。
「それはあります。僕自身、選手上がりですし。『コイツとやりたい』という気持ちを持つことは十分に理解しています。逆にそこがない選手の方が、どうなんやろうってなりますよね。そこをやるのが、VTJを開催する真意ですよね。
公式戦が修斗内という表現を使うと、それも絶対的なことではないですけど、どこの団体、どの大会にも優秀な選手、強い選手はいます。そういう選手たちと修斗の選手が戦うとどうなるのか。それはファンの皆さんも興味を持ってくれるだろうし、僕自身も興味を持っています。
現状、なかなか選手たちも海外で試合をすることはできないです。これが参加費を払って出場するアマチュア大会ならまだ、そういうチャンスもあるかもしれないですが。プロとして呼ばれて、試合に出る。それが可能なのはUFCとONE、Bellatorなど一部の舞台で。日本人選手にとってハードルが高いなら、僕らが何とかせなアカンと」
──親心でもあるわけですね。
「親心……う~ん、そうしないといけない。そうするための努力をすることが、自分の役割だと思います。ABEMAや長南(亮)君とRoad to ONEを開いた。トライ……トライするということですよね。次が海外の選手招聘なら須藤元気参議院議員を訪ね、スポーツ庁を紹介頂き、隔離措置の緩和にはオリンピックのような公益性が必要なのでレスリング協会へもお願いに上がっています。
先ほども言ったように指を咥えて状況が変化することを持つのではなく、何かトライすることが大切なんです。そこを乗り越えてこそ、『やった』ことになるので。何がベストか分からないですけど、ベストを尽くすことは絶対です。
それって練習も試合も同じですよね。ベストを尽くそうとする……ベストを尽くす、ことを全うする。別に完璧じゃなくても、そこはやらないといけないです」
──だからこそ、あえてB面を持ちこむ。思えば2021年は日本最弱から25年になります。
「1996年のVTJは、僕は修斗から離れている時期で外から眺めていました。ただ言えることは、結果は結果なんです。これは変えることはできない。でも、その結果からあとを変えていかないといけない。技術的にもそうだし、意識的にもそう。UFCまで修斗にパウンドはなかったです。
ただし、佐山(聡)先生はブラジルにバーリトゥードがあり、寝技で打撃が許されている試合があることは知っていました。知っていたけど、佐山先生はレスリング、ボクシング、キックボクシングと先生の知っている寝技を合わせて総合格闘技を創っていました。そこにはパウンドという要素はなかったんです。
それでも佐山先生はボディへのパウンドを導入したり、試行錯誤はしていました。結果、ボディへのパウンドも必要ないという結論を出されていましたけど。
総合格闘技の確立ではなくて、果たし合いとして何でも有りという概念を持つグレイシー。その文化の違いを明確に感じていて、それでも取り入れようと決めた時に、先生はいきなり取り入れるのではなくて……皆がパウンドがあるかどうかということばかりに頭が云っている時に、まずガードポジションにポイントを与えるというルールを導入しているんですよね」
──ハイ。田中健一選手に九平選手がテイクダウンを取られる。でも、その度に九平選手に加点される。当時、「何だ、これは!」と思って見ていました。
「殴られないための技術をまずは覚える。次のステップのため、先生は批判を浴びても粛々と続けていました。あとから振り返ると意味がある、皆が分かることを。本当に先見の明があるというか。
先生の指導は本当に細かかったです。なぜか、『お前らを強くしたいのが50パーセント。残りの50パーセントは、お前らに良い指導者になってほしい』と言われていて。『そうしないと、この競技は広まらないからね』と……」
──何とも、凄い人です。そうやって公式戦でパウンドを解禁し、海外勢との試合も増えた。結果、1996年の惨敗。直後に坂本さんが修斗に戻ってきてワールド修斗、サステインと1997年から1999年までVJTを開催し、公式戦も米国、ブラジル、欧州、豪州と海外勢を発掘&招聘するようになっていました。
「グレイシーから始まり、世界中でMMAが行われるようになり、エェ目標というか対抗意識はやはりありましたよ。当時、可能な限り強い選手を呼んできたというのは思っています。だから負けている。弱いヤツを呼んでいたら、勝てますからね。それは1996年のVTJも同じかと。
あの時は日本最弱って肩を落としていたけど……日本最弱、やっぱり負けても胸の張れる大会やったはずです。エンセンが(イゴール)ジノビエフにパウンドアウトされ、朝日さんがホイラーに絞め落とされ、ルミナは顔面がボコボコになり眼窩底骨折し入院しました。それは強い選手と戦ったからで。胸を張って良い、敗北やったんです」
──続く公式戦から、坂本さんがタクトを振るい修斗の興行を仕切ることになりました。そして、年間のスケジュールをVTJに向けて強化大会を組むようになっていきました。
「まず僕が受け持つようになった公式戦で、エンセンがVJTで菊田早苗選手に勝ったムスタファ・アブドゥーラに勝ちました。年が明けて97年の1月には、ルミナがヒカルド・ボテーリョに足関節で勝った。公式戦で結果を残し、VTJに向かっていった。選手はひとつずつ与えられた相手を潰して、VTJの舞台に上がっていたんですよね。
そしてVTJ97でルミナがジョン・ルイスにリベンジし、エンセンはフランク・シャムロックに負けました。でも1998年にランディー・クートゥアーに腕十字を極めて勝ちましたからね」
──いやぁ、今更ながら世界のトップとタメを張っていたことが思い出されますね。
「1997年のVTJは中尾受太郎がUSWFのスティーブ・ネルソンに勝ち……スティーブも修斗に対応できる選手を探しに、アマリロまで行って。
あの時、ゲストとしてリングで紹介されると、テキサスのファンからずっとブーイングをされて──『何やね、これは!』って思いましたよ(笑)。メインでスティーブが勝った時に手を挙げると、その時にだけようやくブーイングが収まって(笑)。
USWFで発掘したポール・ジョーンズとか招聘して、VTJに大将のスティーブとフランク・トリッグを呼びましたね。あとはジョン・ルイスから繋がりができたノヴァウニオンからジョン・ホーキが来て、巽宇宙と戦いました」
──ルイス・ペデネイラス柔術ですね!!
「そこからデデ(アンドレ・ペデネイラス)と縁ができて、彼が修斗ブラジルの大会を開くようになる。今からすると、色々なことの潮流があって原点になっていますね。カーロス・ニュートンが出たのも、この1997年だったはずです」
<この項、続く>
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