【写真】ファダにとって、誰もが教わることができる──生きる術として柔術を指導していた (C) MMAPLANET
国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.03をお送りします。
世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術、オズワウド・ファダが伝えたスブービオ柔術とは。
<MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─はコチラから>
1920年、ベントヒベイロで生まれたファダは、17歳のときに始めて道衣に袖を通した。ブラジル海軍で南米王者の肩書きを持つバルタザゥ・カルドッソの下でボクシングのトレーニングをしていた彼が目にした、海兵が見たこともない格闘技の訓練こそコンデ・コマの教えを受けたルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。
すぐにフランサを師事した彼は、5年後の1942年に黒帯となり、アカデミア・ファダをベントヒベイロの街に創る。もちろんファダはリオの中心で、リッチ層を相手に柔術の指導を行うアカデミア・グレイシーの存在を知っていた。
知っていたからこそ、彼はスブービオの複数の地域で「庶民のため」に柔術を指導するようになる。グレイシーはファダ柔術を蔑み、「あんなもの」という態度をあからさまにしたという。
ファダと弟子たちは、怒気も露に新聞各紙を通して、グレイシーに挑戦状を叩きつける。そして1954年、ファダの弟子たちはグレイシー・アカデミー内で、エリオの弟子と対抗戦を行い、ファダの教え子ジョゼ・ギマラエスがエリオの弟子レオニダスを絞め落とした――、というのがファダ側の言い分だ。実際にヘビスタ・ドスポルチ誌上で、勝利宣言を行っている。
ただ、この話をグレイシー側に改めて問うと「話をしただけで、本当の対抗戦など行われなかった」(ジョアォン・アルベウト=エリオの一番弟子)という返答が返って来た。
1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト
道場内の試合なので公式戦ではないという意味かもしれないし、ファダ側に言い分にしてもたった一人の勝利だけがクローズアップされているような感もないでない。
この道場マッチが灰色決着だったのとは対照的に、1955年には公衆の面前で、アカデミア・グレイシーとアカデミア・ファダの対抗戦が行われている。
カーウソン・グレイシーがヴァウデマー・サンタナを相手にエリオのリベンジを果たした日、前座試合でファダの一番弟子アデウバウ・バチスタが出場し、柔術マッチでグレイシー・アカデミーのペドロ・ヴァレンチと対戦した。
結果は時間切れドロー、この一戦を最後に、リオデジャネイロ州選手権が活発に開かれるようになる1980年代まで、ファダとグレイシーの接点は見られない。
1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟
ファダは北へ、グレイシーは南へ戻り、自らのテリトリーで、それぞれの選択に沿った柔術の普及に勤しむようになる。
「庶民のため」の柔術から、ファダの柔術哲学は「誰にもできる」柔術へ一歩、歩を進めていた。そんなファダの弟子のなかにはロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントスという青年がいた。トルペドの愛称で親しまれた彼は、交通事故で両足をなくしスケードボードのような、小さな車輪のついた木の板で移動を余儀されていた。
ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ
心も塞ぎかちだったトルペドはファダの下で柔術の練習を始め、心の病を克服。
「僕も試合がしたい。ハンディキャップがない相手と戦いたい」とファダに訴えた。1960年にバイーアで、トレペドは柔術ではなくバーリトゥードに出場。マタレオンで一本勝ちを収める。
トレペドはこの後、ファダ柔術の象徴となり、ボリビア、ペルー、大西洋を北上して渡り、フランスで柔術のデモンストレーションを行うまでになったそうだ。
1970年代に入り、ファダの一番弟子だったモニーゥ・サラマォンがヴィラダペーニャで独立。
1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ
その後もヘセンジがパブナに、ジェラウド・フローヒスもヴィラダペーニャに自らの道場を開設したように次々と弟子たちが道場を開いたことで、ファダはグレイシーが創設したグアナバラ州協会(のちのリオ州協会)とは別に、スブービオ内の協会を結成した。
1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物
ファダの柔術協会では「誰にでもできる」柔術の特徴として、少年クラスの充実は目を見張るものがあった。
「当時はね、優勝してもメダルもトロフィーもなくて、子供たちに人気のあったゼリーが優勝商品なんだ」と振り返るのはフローヒスの下で柔術を始め、後にメーロ・テニスクルービーで最強の子供クラスの柔術を創り上げるヴァンデウ・アレッシャンドリ(※レオ・サントスの師)だ。
彼やサラマォンの愛弟子ジュリオ・セザー(※後にGTFでホドウフォ・ヴィエイラや多くの強豪柔術家を育てる指導者に。現役時代はスブービオ柔術の代名詞である足関節=シャウジペニャの名手)も、ゼリー目当てで一流柔術家の一歩を歩み始めた口だった
1980年代を迎えると、南のグレイシーもカーウソンを筆頭に富裕層以外への指導を始め、柔術界はすそ野を一気に広めることとなる。
1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権
結果、競技人口が増えることでトーナメントの数も飛躍的に増加した。そして南と北の柔術が、一つのルールで対峙する時を迎える。
ただし、当時の最大の大会であったグアナバラ州選手権でエリオ・グレイシーから「ファダのところの選手とは戦えない」という発言があるなど、両者の間には確かな溝が存在していた。
柔術を名乗っていても、技術的にも両者には違いが見られた。当時の柔術界は道場間の交流はほぼ見られず、それぞれが特色を持った時代でファダ~サラマォンの柔術では、グレイシーが力を入れていなかった足関節が発達していた。
足関節はグレイシー系の柔術を学んだ者にとっては、卑怯者が使う技というイメージがあり、前述したセザーなどは幼少の頃に、グレイシー系の柔術家からはスブービオ柔術の選手に足関節を揶揄しつつ、多分に差別的表現が用いられた野次を常に会場で耳にしていたことを明かしている。
この傾向は1990年代に柔術が米国で普及し始めた時に、ストレート・フットロックで勝つ米国人に対し、ブラジル勢が大ブーイングを送るほど、根強く残った柔術の一面だ。
1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー
「当時の柔術にはスイープにはポイントがなく、足関節で失敗して相手に立たれてもポイントを失うことがなかったんだ。
同時に僕らは攻め以上に防御の練習をしたし、アカデミーの練習でケガをするなんてことはなかった。ディフェンスも発達していたから、極まらなかった場合は逃げた相手のバックを取るとか、足関節を足関節で終わらせない技術を持っていたしね。今の柔術は外掛けが禁止になったから、足関節は凄く限定的な技になった。現代柔術は足関節だけでなく、そこから次の動きも失ってしまったんだ」(2005年8月1日、ジュリオ・セザー)。
トランジッションとしての足関節。このインタビューから10年を過ぎた頃に、ジョン・ダナハー門下のエディ・カミングス、ゲイリー・トノンらがサドル・ポジションというトランジッションと足関節を駆使して旋風を巻き起こすことになる。実際に使われていた技術がいかようなものだったか今や知るすべはないものの、1980年代のスブービオ柔術では技の繋ぎとしての足関節を有していたことはニヤリとしてしまう。
足関節を巡る技術的対立、そして政治的な部分での折り合いの悪さは結局、富める者=南の柔術が北の柔術を統べることとなっていく。その大きな要因の一つにファダが、弟子に柔術界の動向を任せたかのように、表舞台に立たなくなったことが挙げられる。
そしてスブービオ柔術は、南側の人間の露になった軽蔑の視線、言動から逃れるために彼ら独自のテクニックを封印して技術的にも南側へ歩み寄り、競技運営のイニシアチブも南の人間に決定的に譲ることとなった。
グレイシーとは対照的に、一族内に後継者を育むことに力を入れていなかったファダは、カーロス・グレイシーJrによる国レベルの連盟発足を直後に控えた1990年、48年間続いたアカデミーの門を閉じている。
1994年、スブービオに進出してきたカーウソン・グレイシーの教え子セバスチャオン・ヒカルドから黒帯を授かっていたアレッシャンドリは北側で最大勢力を誇るようになったメーロ・テニスクルービー勢を率いて、カーウソン・グレイシー系のアンドレ・ペデネイラスと合体、北と南の柔術が手を結びノヴァウニオンを結成した。この後、技術的にもスブービオ特有の技術、南リオの柔術家が得意とする技など存在しなくなり、ブラジリアン柔術には北も南もなくなった。ここにスブービオ柔術は、52年の歴史に終止符を打ったといえよう。
ノヴァウニオンが誕生する前年にはUFCがホリオン・グレイシーの手によりスタートし、柔術は世界への伝播を始めた。この時にホリオン・グレイシーの語る柔術正史のなかに、当然のようにスブービオ柔術もオズワウド・ファダの名が確認されることはなかった。事実上グレイシー系=南が、北=スブービオを統一したという見方が成り立つ。
オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル
ブラジルのメディアでいえば、その担い手の多くが南リオの人間の手によって発刊されており、ファダ柔術という文字が雑誌に載ることもなかった。2005年4月1日、マスター・ファダが亡くなるまで。
ファダとスブービオ柔術は柔術界に何を残したのだろうか。
答は明白だ。ムンジアルやMMAで活躍するブラジル人選手は南リオの富裕・中流層ばかりでない。南リオ自体がブラジル最大級のフェベイラが点在するようなり、その貧しさの中から柔術やMMAで人生を切り開いた選手がどれだけ存在していることか。
柔術でいえば競技柔術としての側面を見てみても、幼年クラスの充実ぶりは目を見張るものがある。
オズワウド・ファダの夢、目指した未来──「ジウジツ・エ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス」(誰にでもできる柔術)は結実し、スブービオ柔術の息吹は、今日も柔術会場でブラジル各地のアカデミーで吹き続けている。
追記──今回、2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を加筆したうえで再録させてもらったが、あれから15年を経て、2014年のFIFAワールドカップ、2016年のリオデジャネイロ五輪後には北のスブービオと南のヒキーニョの経済格差は、さらに広まっているということをリオの旧友M・Dに教えてもらった。
ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた
ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、格闘技メディアとして活躍後──MMAへの造詣の深さと英語力を買われ、某巨大MMA組織の支社で働くようになった。
ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた
そして、今ではM・Aと同じバッハ・デ・チジューカの住民になっている。
「今でもバッハでは道を間違ってばかりだよ」と笑う彼もまた、柔術が誰にでもできる時代になったことで、人生を切り開くことができた1人だ。
Special thanks to Andre Araujo, Martins Denis and Rosa Fadda