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Gladiator Special The Fight Must Go On ブログ レッツ豪太 中村勇太 櫻井雄一郎

【The Fight Must Go On】Must Watch !! 櫻井雄一郎のおススメ、Gladiatorを知るための5番勝負─04─

Gladiator001【写真】この日、5つのタイトルマッチが行われ、今もベルトを保持しているのはレッツだけだ(C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第31弾はMust Watch!!  このスポーツの著名人が、改めて視聴することを薦める試合を紹介したい。

和歌山発、関西でMMAの普及に努めるGLADIATORの櫻井雄一郎代表が選ぶ、Gladiator編。櫻井代表が「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」から、4試合目を。

※ここで紹介する試合は、オフィシャルホームページやオフィシャルYouTubeチャンネルで誰もが無料で視聴できるファイトに限っており、違法でアップされた試合は含まれていません。


櫻井代表が選んだ「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」、3試合目は2016年6月19日の新生Gladiator旗挙げ大会で行われたレッツ豪太✖中村勇太の一戦だ。

2004年7月に韓国で産声を上げたグラジエイターは、その後CMAによって日本国内で10年以上に渡り地方都市、プロレスやキックの試合も組んで大会を継続してきた。そのグラジエイター和歌山大会をサポートした創道塾の櫻井代表が買い取り、純粋MMA大会として再スタートを切った大会のメインイベントがこの一戦だった。

櫻井雄一郎のMust Watch 04、レッツ✖中村の選択理由は以下の通りだ。

櫻井雄一郎
Let's vs Nakamura「この試合は新体制グラジエイターの第1回大会のメイン、記念すべき試合でした。

ウェルター級という重いクラスで見応えもありました。あの風貌でパワフルな中村選手に対し、この時のレッツ選手はかなりアグレッシブな姿勢で戦っていましたね。レッツ選手は低迷期でもあって、そこから這い出す試合で。

Let's vs Nakamura 02しかも彼をサポートしているボディメーカーさんが大会の冠スポンサーでもある大会。彼の必死さが伝わってくる戦いでした。

試合後も中村選手の『参った』という表情がまた清々しくて。お互いが判定結果に納得している、熱戦でした。私にとっても旗揚げ大会、素晴らしいフィナーレとなりましたね。グラジエイターのベルトを巻く選手、大会をリードする選手としての仕事をレッツ選手がしてくれました」

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Gladiator Grachan Interview J-CAGE Special The Fight Must Go On ウィル・チョープ ブログ 櫻井雄一郎 長岡弘樹

【The Fight Must Go On】Must Watch !! 櫻井雄一郎のおススメ、Gladiatorを知るための5番勝負─03─

Nagaoka vs Chope【写真】やるべきことをやり抜いた、ド根性ファイト(C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第30弾はMust Watch!!  このスポーツの著名人が、改めて視聴することを薦める試合を紹介したい。

和歌山発、関西でMMAの普及に努めるGLADIATORの櫻井雄一郎代表が選ぶ、Gladiator編。櫻井代表が「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」から、3試合目を。

※ここで紹介する試合は、オフィシャルホームページやオフィシャルYouTubeチャンネルで誰もが無料で視聴できるファイトに限っており、違法でアップされた試合は含まれていません。


櫻井代表が選んだ「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」、3試合目は2019年12月22日にGrachanとの合同大会で行われた長岡弘樹✖ウィル・チョープの一戦だ。

恒例となったグラチャンとの合同大会で、グラジエイターとグラチャン──2つの山の頂点ともいえる王座=GRANDウェルター級王座への挑戦権を賭けて組まれた一戦。チャンピオンを既にRNCで下している──MMA放浪記=チョープに対し、長岡が汗っかきファイトの真骨頂を発揮した力戦だ。

櫻井雄一郎のMust Watch 03、長岡✖チョープの選択理由は以下の通りだ。

櫻井雄一郎
「長岡選手が必死でテイクダウンして、コントロールした試合。疲れることをやり抜いたことが凄く印象に残っています。

Nagaoka vs Chope 02長岡選手は厳しい言い方をすると、全盛期は過ぎたと捉えられても致しかたない状況でした。対して元UFCファイターのチョープは、既に王者ルクク・ダリに勝っている。そんな相手に精いっぱい戦う姿勢を見せてくれ、最終回に下にされた時にチョープは心が折れた瞬間が伝わってきました。

プロとして技術としては当然として、ファンを魅了するという要素は必要です。それがプロの仕事です。判定とはいえ、強豪の心を折った。しっかりと魅せてくれました。そして、あの勝利で沸いた人達を見ると、長岡選手の人柄が分かりました。あの根性ファイトなら、判定だろうがずっと見ていたい戦いでした」

GladiatorオフィシャルYouTubeチャンネルで視られる──動画はコチラから

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Gladiator Interview J-CAGE Special The Fight Must Go On じゅん ブログ 中沢伸悟 櫻井雄一郎

【The Fight Must Go On】Must Watch !! 櫻井雄一郎のおススメ、Gladiatorを知るための5番勝負─02─

Jun vs Nakazawa【写真】打ち合い上等ファイトに館内は沸きに沸いた (C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第29弾はMust Watch!!  このスポーツの著名人が、改めて視聴することを薦める試合を紹介したい。

今回から和歌山発、関西でMMAの普及に努めるGLADIATORの櫻井雄一郎代表が選ぶ、Gladiator編。櫻井代表が「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」から、2試合目を。

※ここで紹介する試合は、オフィシャルホームページやオフィシャルYouTubeチャンネルで誰もが無料で視聴できるファイトに限っており、違法でアップされた試合は含まれていません。


櫻井代表が選んだ「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」、2試合目は2018年6月3日に行われたじゅん✖中沢伸悟の一戦だ。

神戸のreliable代表じゅんがDemolition代表として、Gladiator代表の中沢と空位となっていたバンタム級王座を賭けて戦った試合。多くの応援団と教え子たちの大声援をバックに、殴り合い上等ファイトを仕掛けたじゅん。受けた中沢、会場の盛り上がり方はグラジエイター史上一番といっても過言でない殴り合いとなった。

櫻井雄一郎のMust Watch 02、じゅん✖中沢の選択理由は以下の通りだ。

櫻井雄一郎
「両者とも関西を代表する選手とまでは言わないのですが、試合内容で注目される選手同士の対戦でした。10年ぐらいに前にアマ修斗で戦い、その時は中沢選手が勝っています。リベンジを果たしたいじゅん選手も、中沢選手も相手を殴り倒したいという気持ちを煽り映像の時から出してくれていました。MMAとしては『違う』という見方があるのは理解していますが、ゴングと同時に2人とも言葉通りに前に出て殴り合い、会場のボルテージも最高でした。

お客さんの盛り上がりは過去最高でした。じゅん選手はリライアブルの代表で、実績として彼を上回る選手も育てている。でも、そんな教え子や応援してくれる人達にしっかりと背中を見せてくれました。最後にケージの中で涙を流したじゅん選手を見て、この試合を組んで凄く良かったと自分も思えたんです。お互い全てを出し切った、そして観客を魅了した一戦でした」

GladiatorオフィシャルYouTubeチャンネルで視られる──動画はコチラから

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Interview Special SUG13 クレイグ・ジョーンズ ブログ ヴィニー・マガリャエス 青木真也

【Special】月刊、青木真也のこの一番:4月─その参─クレイグ・ジョーンズ✖マガリャエス「タップしない」

Craig Jones【写真】写真は昨年1月にトライフォース新宿で行われたクレイグ・ジョーンズのセミナー。受け手と通訳をしていたいのが岩本健汰だった(C)MMAPLANET

過去1カ月に行われたMMAの試合から青木真也が気になった試合をピックアップして語る当企画。

背景、技術、格闘技観──青木のMMA論で深く、そして広くMMAを愉しみたい。そんな青木が選んだ2020年4月──格闘技が、この惑星から消えかけた1カ月──の一番、第3弾は26日に開催されたSubmission Underground13から、クレイグ・ジョーンズ✖ヴィニー・マガリャエス戦を語らおう。


──2020年4月度、世界中から格闘技が消えた1カ月。3試合目はどの試合になるのでしょうか。

「SUG13で行われてクレイグ・ジョーンズ✖ヴィニー・マガリャエスですね」

──無観客、リモート撮影のグラップリングからですね!!

「アレ、良かったですよ。セコンドもいなくて。マルチネスとかエレンバーガーが出ていて。申し訳程度にやった感じでしたけどね。この試合に関しては僕は正直、今のグラップリングの知識がそこまでないので岩本(健汰)選手に聞いたんですけど、ニーシールドハーフから裏足を通してヒールへの流れってクレイグ・ジョーンズの強いムーブだそうですね」

──世羅選手も青木選手に狙っていたではないですか。

「あぁ、でもアレって難しくて。ディフェンス有りきでやっていると極められない。だからマガリャエスだって自信を持っていたと思います。でもクレイグ・ジョーンズのは、攻撃的なスネガードからのヒールで。岩本選手も、参考にしてもなかなかできるもんじゃないって言っていました」

──ジョーンズの仕掛けは、スペシャルだと。と同時にマガリャエスはひどく中途半端な対応に見えました。寝技に付き合うけど、足関節から徹底して逃げることはない……ような。

「一発目なんかも、もの凄くイージーに取られましたよね」

──あのインサイド・ヒールはタップをしないと危なくないですか。

「っていうか、アレは普通に取ってもタップしないから、逆手で引き寄せてRNグリップで取りましたからね(笑)。左手で抱えていると、可動域全部にいっちゃたから、右手で抱え直して深く抱くようにした。アレはヒザいったと思います。

2回目のヤツも相当深かったけど、1発目でいっちゃっているので何かが切れていて効かなかったのかと」

──青木選手は練習中に内ヒールでRNグリップまで入ることなんてありますか。

「ない、ない。ないですよ。あのヒザ十字みたいな組み方は、普通のヒールのアプローチでタップしないからさらに捻るってことですからね」

──クレイグ・ジョーンズは『もう止めよう』とか、『ポップしている』とか話して、マガリャエスは『大丈夫だ』みたいなやりとりがずっと続いていましたよね。

「大丈夫じゃないって(笑)。で、最後はガードを取ろうとしたらヒザがもうきかなくなっていて。アレで試合後にコメントしている動画とか挙がっていて……」

──絶句ですね。でも、ホントにタップしないと。技はもう掛かっているんだからと思うのみでした。

「岩本選手がよく言っているんですけど、『ヒザはケガしない』って。でも、それは我慢しないことが大前提で。ヒールに限らず、サブミッションは我慢するとケガしますよ。メチャクチャ当たり前のことを再確認させてくれました」

──その点、青木選手がゲイリー・トノンと戦った時のタップは潔かったです。

「アレはもう、そういうものですよ。足関節は観念してタップしないと。我慢しちゃダメです。それだけレベルが上がっていることだから。足首を捻くり回すんじゃなくて、ヒザへのアプローチだから。マガリャエスみたいなことをしていると、ダメですよ」

──少人数、10人以上相席しないというロックダウン下でセコンドがいなかった。セコンドがいたらタオル投入ではないでしょうか。1度目で壊れ、2度目がある前に。

「グラップリングってタオルはないと思っていたから、その観点はなかったです。それ良い話ですよ。セコンドがいたら、止めたっていうのは。僕がセコンドだったら、止めさせますしね。

いずれにしてもクレイグのヒールは破壊力が尋常ではなかったですね。ジェイク・シールズ、ジルベウト・ドゥリーニョも取られて。2人はちゃんとタップして。ドゥリーニョとか他に仕事があるから、そりゃ即タップですよ」

──足関節のタップで、なんか機微ですね。もう心の動きでタップしないと。

「そうですね。お互いに分かり合って、『今』ってね。クレイグ・ジョーンズは自分から外して、大人でした。それにしても、下からチャンと仕留めることができる。僕ら日本人選手が、好きなグラップラーですね」

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Gladiator Interview J-CAGE Special The Fight Must Go On ブログ 南出剛 土肥潤 櫻井雄一郎

【The Fight Must Go On】Must Watch !! 櫻井雄一郎のおススメ、Gladiatorを知るための5番勝負─01─

Minamide vs Doi【写真】現時点で和歌山で開催された最後のGladiatorのメインで南出と土肥が戦った (C)MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾はMust Watch!!  このスポーツの著名人が、改めて視聴することを薦める試合を紹介したい。

今回から和歌山発、関西でMMAの普及に努めるGLADIATORの櫻井雄一郎代表が選ぶ、Gladiator編。櫻井代表が「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」から、最初の1番を。

※ここで紹介する試合は、オフィシャルホームページやオフィシャルYouTubeチャンネルで誰もが無料で視聴できるファイトに限っており、違法でアップされた試合は含まれていません。


櫻井代表が選んだ「Gladiatorで頑張っている選手をもっと知って欲しいために選んだ5番勝負」、1試合目は2017年8月13日に行われた南出剛✖土肥潤の一戦だ。

和歌山・創道塾のエースが打✖組という異種格闘技的な一戦に挑んだ一戦は、櫻井代表にとってプロモーターとして、そしてジムの代表としての2つの目を持って見ていた両者の特徴が出た好勝負だった。

櫻井雄一郎のMust Watch 01、南出✖土肥戦の選択理由は以下の通りだ。

櫻井雄一郎
Minamide vs Doi 02「この大会で南出をメインに抜擢したのは、2カ月前に修斗大阪大会に急遽オファーを受けたのですが、減量中に脱水症状で病院に運ばれ試合に穴を開けてしまったことも関係していました。

そのことで本人の気持ちも落ち気味だったので、それなら地元・和歌山で戦って再起を目指せば良いやろうと。MIBUROのウエタ・ユウ代表に電話をすると、その時横にいた土肥選手が即答で『やりたい』って言ってくれました。

Minamide vs Doi 03土肥選手は南出が苦手とするグラップラーで、自分の持ち味を出して勝てるのか、それとも相手の得意なところで戦って負けるのか。1Rは組まれて寝技に持ち込まれ、何とかラウンド終了まで堪えましたが圧倒されました。

この試合は2回戦だったのですが、南出は組みを嫌がって下がらず、前に出て勝負を賭けました。そして打ち勝った。結果的に両者の良いところが出たうえで、剛が地元に錦を飾ることができた良い試合でした」

BellatorオフィシャルYouTubeチャンネルで視られる──動画はコチラから

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Interview Road to ONE02 Special ブログ 西川大和 青木真也

【Special】月刊、青木真也のこの一番:4月─その弐─緑川創✖西川大和「花が開く要素のある試合を」

Nishikawa vs Midorikawa【写真】 17歳のMMAファイターが、新日本キックとWKBA世界王者に臆することなく向かっていった(C) MMAPLANET

過去1カ月に行われたMMAの試合から青木真也が気になった試合をピックアップして語る当企画。

背景、技術、格闘技観──青木のMMA論で深く、そして広くMMAを愉しみたい。そんな青木が選んだ2020年4月──格闘技が、この惑星から消えかけた1カ月──の一番、第二弾は17日に行われたRoad to ONE02からムエタイ72.5キロ契約戦=緑川創✖西川大和の一戦を語らおう。


──2020年4月度、世界中から格闘技が消えた1カ月。青木真也が選ぶ、この一番。2試合目は?

「緑川創✖西川大和のムエタイの試合ですね。西川選手もレコードが汚いんですよ。彼も負けたり、ドローが多くて。でも17歳でしょ? ああいう風にプロモーションが彼を登用するのは危ないな、とも感じました。良い選手だけに」

──北のMMA=PFCで頑張って、韓国のTOP FCでも戦っています。

「勿体ないですよ。そして怖い。ああいう試合を受けていると、壊れてしまいます。今回のようにMMAで将来有望な若い選手とキックのトップランカーとやらせてしまうのは、怖かったです。緑川選手有りきだし。僕らからすると西川選手自身、キャリアを大切にしてほしいですね」

──ここで難しい試合を受けて、次の機会を得る。そういう選択が地方選手にはあるのでしょうね。

「日本のMMAは地方に対して、首都圏が強気でいける歴史がありました。地方の選手に対して、チャンスがないから『いつ、誰とでもやれよ』っていうのは……ちょっと業界の悪しき習慣ではありますよね。

だからこそ地方の選手は機会があれば、跳びついてしまう。まぁ日本のMMA業界が地方の選手まで大切にしてあげられる状況にないです。西川選手は17歳で素質があって、あれだけ頑張っている。それなのに首都圏のロジックで登用される。それが現実ですね」

──指導者の方も、チャンスが巡ってきたら掴ませてあげたいですし。

「ハイ。その通りです。それが日本の現状です」

──格闘技は特に地方都市と首都圏の差が大きいですね。プロ野球やJリーグのチームがある都市でも、格闘技の大会は数百人規模になります。大阪や名古屋、札幌、福岡なら1万人越えのイベントはK-1やPRIDE時代はあった。ただし、地上波がない大会は人口200万人都市圏でも一気に数百人規模になる。そういう意味でもRIZINの地方都市大会は価値があるかと。

「RIZINってなんだかんだ言っても大切なんです。TVは人口の多いボリューム・ゾーンが強い。そこと格闘技の東京中心は似ているかと。格闘技界は東京にだけ集中しているので。と同時に地方都市でもABEMAとか新しいメディアも浸透してきていると思います。

地上波とネットTVがあるように、格闘技界もね──新しいやり方というか……西川選手にしても東京にパイプを創って、試合前にキャンプみたいにできる状況とか持てたらなって感じますよ」

──そういうことになるのですね。

「それでも西川選手はKO負けもしなかったし、認められる試合ができた。だからこそ次は、こうでない試合が組まれて欲しいです。彼が切磋琢磨できる試合。少しでも花が開く要素のある試合に、ですね」

──そういう意味では時間の制約もあったRoad to ONEで見られた課題ですね。力の差があったマッチメイクは。

大会終了後、青木は西川を直接労っていた

大会終了後、青木は西川を直接労っていた

「これ言うとアレですけど、言うたらプロモーター側に強いプロレスみたいな大会になる。

それは格闘技としてはフェアじゃない。でも今回は特に時間もなかったし、それは仕方がなかったです」

──コロナの時代の格闘技大会として、それがニューノーマルになるのかもしれないですね。

「金策の部分も含めて、色々と皆が模索し始めた感じはします。ネットTVの需要が高まっている。ただし、企業は金を貯めておきたい。そこで広告とかどうなるのか。それが格闘技界、そして地方の選手の需要にも関係してくるでしょうね」

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Interview Road to ONE02 Special ブログ 後藤丈治 祖根寿麻 青木真也

【Special】月刊、青木真也のこの一番:4月─その壱─後藤丈治✖祖根寿麻「ビックアップセットですよ」

Goto vs Sone【写真】格闘技は勝敗の結果が、勝っても負けても将来に影響することが大切だ (C) MMAPLANET

過去1カ月に行われたMMAの試合から青木真也が気になった試合をピックアップして語る当企画。

背景、技術、格闘技観──青木のMMA論で深く、そして広くMMAを愉しみたい。そんな青木が選んだ2020年4月──格闘技が、この惑星から消えかけた1カ月──の一番、第一弾は17日に行われたRoad to ONE02から後藤丈治✖祖根寿麻の一戦を語らおう。


──2020年4月度、世界中から格闘技が消えた1カ月。選択肢が限りなく少ない状況で青木真也が選ぶ、この一番。最初の試合は?

「後藤丈治✖祖根寿麻ですね。なんか僕、祖根って強いと思っていたんですけど、レコードを見るとこれで5連敗なんですよね。元谷(友貴)、岡田(遼)、根津(優太)、ジャスティン・スコッギンス、そして今回で。

まぁ、強い相手とやってきたというのはありますが、それにしてもコンディションが良くないのかと正直、思いました」

──それは自粛、非常事態宣言でどれだけの準備ができたのかということも影響してこないでしょうか。

「それを言えば、お互い様なんで。バンタム級だし、30歳を越えていると、中量級や重量級とは違って消耗しやすいのかというのも感じています」

──スタイルにもよるかと思いますが。

「まぁ、僕とはスタイルも違いますが……にしても消耗していないかと。ファイターのコンディションとして、ビジネスをしていたり、ジム経営と指導もあってプレーイング・マネージャーだから落ちてきているのか。

野村克也が南海ホークスで(※ダイエー・ホークスを経て福岡ソフトバンク・ホークス)プレーイング・マネージャーをやっていて凄く難しかったと言っていて」

──いや、青木選手はその時代に生まれていないじゃないですか!!(笑)。どちらかといえばヤクルト・スワローズの古田敦也さんの時代では? 自分なんて子供の頃、「なんで野村が4番で門田(博光)が3番なんだ。監督だからって、4番打つなよ」とか言っていましたよ(笑)。

「まるで分からないですよ(笑)。僕は野村監督の書いた本を読んで知った方です(笑)。選手兼監督は凄く大変で、優秀なヘッドコーチがいないとやらないって言ったとか。だから、祖根も難しいんだと思います」

──勝った後藤選手に関しては?

「一緒に練習しているんですけど、打撃の子ですね。でも祖根が有利だと試合前は思っていました」

──パンクラスでプレリミに出ていた選手が、修斗の前環太平洋王者でRIZINに出場している選手との対戦でしたからね。

「そう思いますよね。だからビックアップセットなんですよ。祖根のコンディションが悪かったとしても、この負けをこれから取り返すのは難しくなった。下手すると3年ぐらいかかるので、32歳とかっていう年齢でそこにもう一度向かい合えるのか。そうでない選択もできる状況がありますからね。

彼はそういう意味で優秀だと思うので。ただ後藤もレコードは決して良くない。最後の負けは米山(千隼)選手で、そこからはこれで5連勝なんですけどね。それまではパンクラスの札幌大会とかでも負けもある」

──だからこそ、この勝利が大きくないでしょうか。

「大きいですが、今回はRoad to ONEだから主戦場としているパンクラスでどういう風に評価されるのか。彼が修斗でやっているなら、元王者に勝ったから次は良いカードが来ますよね。修斗公式戦ではなくても、そのヒエラルキーを潰したので。『なら魚井(フルスイング)とやらせてみようか。いや手塚(基伸)かな?』ってなるのですが、パンクラスでも誰かとやらせてみるかってなるのか……分からないですよね」

──大会が再開されるとして、修斗の元王者にこの状況で試合をして勝った。そこはパンクラスも留意してほしいですね。きっと後藤選手がパンクラスで戦っていた試合よりも、今回の大会の方がABEMAで試合を視聴したファンが多いと思いますし。

「そこはありますよね。今回はパンクラスのプレリミよりも、視てもらっているだろうし。そこで結果も残しているし、すぐにアップして使われてほしいです。パンクラスにソレがないなら、修斗でも良い。とにかく次は、より上の選手と組んでもらいたいですね。彼は結果を残したので」

──確かにその通りですね。

「この試合で大きなチャンスを得る資格を得た。なら彼の言葉でメディアに対する発言が欲しいです。そうでないと、彼の人となりが見えてこないので。『誰とやりたい』、『どこでやっていきたい』とか。あの試合後は控室で取材をする状態ではなかったから、後追いで後藤丈治という選手を知りたいです」

──分かりました。それは青木選手からMMAPLANETへの宿題として捉えさせてもらいます。

「宜しくお願いします(笑)」

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Ironheart Crown Special The Fight Must Go On エリック・ムーン ステファン・ボナー ブログ ミゲール・トーレス

【The Fight Must Go On】イベントプログラム・シリーズ─04─2004年6月5日、Ironheart Crown@ハモンド

IHC【写真】ホイス・グレイシーの道着を掴んでアッパーを入れたキース・ハックニーの教え子ギディオン・レイとミレティッチMMAのジェイソン・ブラックがメインで戦った(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾はMMAPLANET夜明け前のイベントプログラム・シリーズ……その第4回として2004年6月5日、IRONHEART CROWN(IHC)のパンフレットを捲ってみたい。


IHCはハワイのヘウソン・グレイシーの下で柔術を学んでいたエリック・ムーンが、ドクターとして勤務にしていたイリノイ州シカゴで興したMMA大会だ。第1回大会は1999年11月、2001年までは本業の過密勤務のなか年に1度のペースが行われていた。最初の2回はイリノイ州がパウンド有りのファイトを認めなかったため、グラウンドでは打撃なしのKOKやZSTルールのようなルールが使用されていた。

IHC03第3回からシカゴ市の東隣、インディア州ハモンドを開催地としパウンド有りに移行する。

2002年10月の第5回大会よりUSA修斗の認可を受けてプロ修斗公式戦を組むようになり、修斗アメリカス王座決定トーナメント及び王座決定戦を組むなど、中西部のプロ修斗公式戦を担うようになっていった。

IHC02ここでパンフを紹介する2004年6月大会でも10試合のプロ修斗公式戦が組まれ、後にミゲール・トーレス、ステファン・ボナーというMMAに名を残すファイターが出場している。

この他、テリー・マーチン、アントニオ・カルバーリョ、メインで戦ったジェイソン・ブラック✖ギディオン・レイと6人の同大会出場選手がUFCにステップアップを果たしている。

この後、来日も果たしたアントニオ・カルバーリョ

この後、来日も果たしたアントニオ・カルバーリョ

IHCはシカゴや中西部勢が主流であったが、修斗公式戦を組むようになり日本で戦うチャンスを得るために主催者にコンタクトを取るファイターも見られ、前述したカルバーリョはカナダのオンタリオから、対するクリス・アレンはコロラド州デンバーから遠征してきた。

ムーンは本職でないが故に、自らの理想を追求するためにビジネスを度外視た部分もあり、そんな彼のパッションがこのようなローカルに関係のない高水準のカードのマッチアップに通じている。

その試合で勝利したカルバーリョは、ムーンの熱意を背に受けたようにIHCに続き、カナダ・バンクーバーで修斗の試合を組むようになったWEFを経て来日を実現させる。佐藤ルミナと日沖発に勝利したカルバーリョは、GCMのCAGE FORCEやカナダで一時期、比較的に規模の大きな大会を開いていたSCORE Fighting SeriesからUFCに辿り着いた。

一方、クリス・アレンはドウェイン・ラドウィックの同門で、コロラドのRING OF FIREでK-1ルールでも活躍していた打撃系MMAファイターだ。彼はカルバーリョとは対照的に、メジャー進出を逃しROFで2010年にキャリアを終えている。ROFはアレン以外にアルヴィン・ロビンソン、そしてドナルド・セラーニを輩出したロッキーマウンテンのフィーダーショーで、プロモーターとマネージャーを兼ねていたスヴェン・ビーンはセラーニをケージフォースに来日させ、今では北米最大のフィーダーショー=LFAの副社長を務めている。

修斗グローブが新鮮なボナー

修斗グローブが新鮮なボナー

2005年にTUFによりUFCがメインストリームに闊歩するようになる前年、2006年12月のZuffaによるWECの買収=フェザー級以下のメジャー化プロジェクト開始まで2年半。

来るべき時がくれば花を咲かせ、実をつける以前、そんな時代の到来を夢見た関係者たちが、全米各地で見られ、日本も絡めたうえでIHCもまた、当時のMMAシーンを象徴するイベントともいえる。

後列右端がムーン。共同プロモーターのブラウリオ・コラルが何やら耳打ち。ムーンの方を見ているのが、キース・ハックニー。中腰の背広姿はコンバット・ドーのボブ・シュマー、ホゼ・トーレスを育てた。後列左端がエクストリーム・チャレンジのモンテ・コックス、前列は右端がHnHのジェフ・オズボーン、ジェンス・パルバー、ジェフ・カーラン、そしてカーウソン・グレイシーJr

後列右端がムーン。共同プロモーターのブラウリオ・コラルが何やら耳打ち。ムーンの方を見ているのが、キース・ハックニー。中腰の背広姿はコンバット・ドーのボブ・シュマー、ホゼ・トーレスを育てた。後列左端がエクストリーム・チャレンジのモンテ・コックス、前列は右端がHnHのジェフ・オズボーン、ジェンス・パルバー、ジェフ・カーラン、そしてカーウソン・グレイシーJr

WEC世界バンタム級王者として凱旋したトーレス

WEC世界バンタム級王者として凱旋したトーレス

IHCはイリノイ州でMMAが認められるようになった後、2008年11月にイリノイ大学シカゴ校=UICパビリオンで最後の大会を行い、ムーンはMMAから勇退し医療に専念。既に修斗公式戦でなくなっていた最後のIHCのメインにはハファエル・アスンソンが出場、第5試合ではリカルド・ラモスが判定勝ちを収めている。

翌2009年4月に所も同じUPIパビリオンにWECが進出し、メインでミゲール・トーレスがWEC世界バンタム級王座防衛戦を──この大会が開かれた2004年に全日本アマ修斗で優勝し、翌年プロとなった水垣偉弥を相手に行っている。

さらにはアスンソン、ジェフ・カーランというIHC卒業生が全米にライブ中継されたイベントで戦った。

MMAがまだ世の認知を受けていない頃から、エリック・ムーンをはじめIHCに関係していたファイターやコーチ、関係者の夢見ていた世界は、ここに結実したといっても過言でないだろう。

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【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。マスター・ファダとスブービオ柔術よ、永遠に─03─

JIU-JITSU do SUBURBIO 01【写真】ファダにとって、誰もが教わることができる──生きる術として柔術を指導していた (C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.03をお送りします。

JIU-JITSU do SUBURBIO 02世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術、オズワウド・ファダが伝えたスブービオ柔術とは。

<MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─はコチラから>


1920年、ベントヒベイロで生まれたファダは、17歳のときに始めて道衣に袖を通した。ブラジル海軍で南米王者の肩書きを持つバルタザゥ・カルドッソの下でボクシングのトレーニングをしていた彼が目にした、海兵が見たこともない格闘技の訓練こそコンデ・コマの教えを受けたルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。

すぐにフランサを師事した彼は、5年後の1942年に黒帯となり、アカデミア・ファダをベントヒベイロの街に創る。もちろんファダはリオの中心で、リッチ層を相手に柔術の指導を行うアカデミア・グレイシーの存在を知っていた。

知っていたからこそ、彼はスブービオの複数の地域で「庶民のため」に柔術を指導するようになる。グレイシーはファダ柔術を蔑み、「あんなもの」という態度をあからさまにしたという。

ファダと弟子たちは、怒気も露に新聞各紙を通して、グレイシーに挑戦状を叩きつける。そして1954年、ファダの弟子たちはグレイシー・アカデミー内で、エリオの弟子と対抗戦を行い、ファダの教え子ジョゼ・ギマラエスがエリオの弟子レオニダスを絞め落とした――、というのがファダ側の言い分だ。実際にヘビスタ・ドスポルチ誌上で、勝利宣言を行っている。

ただ、この話をグレイシー側に改めて問うと「話をしただけで、本当の対抗戦など行われなかった」(ジョアォン・アルベウト=エリオの一番弟子)という返答が返って来た。

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

道場内の試合なので公式戦ではないという意味かもしれないし、ファダ側に言い分にしてもたった一人の勝利だけがクローズアップされているような感もないでない。

この道場マッチが灰色決着だったのとは対照的に、1955年には公衆の面前で、アカデミア・グレイシーとアカデミア・ファダの対抗戦が行われている。

カーウソン・グレイシーがヴァウデマー・サンタナを相手にエリオのリベンジを果たした日、前座試合でファダの一番弟子アデウバウ・バチスタが出場し、柔術マッチでグレイシー・アカデミーのペドロ・ヴァレンチと対戦した。

結果は時間切れドロー、この一戦を最後に、リオデジャネイロ州選手権が活発に開かれるようになる1980年代まで、ファダとグレイシーの接点は見られない。

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

ファダは北へ、グレイシーは南へ戻り、自らのテリトリーで、それぞれの選択に沿った柔術の普及に勤しむようになる。

「庶民のため」の柔術から、ファダの柔術哲学は「誰にもできる」柔術へ一歩、歩を進めていた。そんなファダの弟子のなかにはロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントスという青年がいた。トルペドの愛称で親しまれた彼は、交通事故で両足をなくしスケードボードのような、小さな車輪のついた木の板で移動を余儀されていた。

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

心も塞ぎかちだったトルペドはファダの下で柔術の練習を始め、心の病を克服。

「僕も試合がしたい。ハンディキャップがない相手と戦いたい」とファダに訴えた。1960年にバイーアで、トレペドは柔術ではなくバーリトゥードに出場。マタレオンで一本勝ちを収める。

トレペドはこの後、ファダ柔術の象徴となり、ボリビア、ペルー、大西洋を北上して渡り、フランスで柔術のデモンストレーションを行うまでになったそうだ。

1970年代に入り、ファダの一番弟子だったモニーゥ・サラマォンがヴィラダペーニャで独立。

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

その後もヘセンジがパブナに、ジェラウド・フローヒスもヴィラダペーニャに自らの道場を開設したように次々と弟子たちが道場を開いたことで、ファダはグレイシーが創設したグアナバラ州協会(のちのリオ州協会)とは別に、スブービオ内の協会を結成した。

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

ファダの柔術協会では「誰にでもできる」柔術の特徴として、少年クラスの充実は目を見張るものがあった。

「当時はね、優勝してもメダルもトロフィーもなくて、子供たちに人気のあったゼリーが優勝商品なんだ」と振り返るのはフローヒスの下で柔術を始め、後にメーロ・テニスクルービーで最強の子供クラスの柔術を創り上げるヴァンデウ・アレッシャンドリ(※レオ・サントスの師)だ。

彼やサラマォンの愛弟子ジュリオ・セザー(※後にGTFでホドウフォ・ヴィエイラや多くの強豪柔術家を育てる指導者に。現役時代はスブービオ柔術の代名詞である足関節=シャウジペニャの名手)も、ゼリー目当てで一流柔術家の一歩を歩み始めた口だった

1980年代を迎えると、南のグレイシーもカーウソンを筆頭に富裕層以外への指導を始め、柔術界はすそ野を一気に広めることとなる。

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

結果、競技人口が増えることでトーナメントの数も飛躍的に増加した。そして南と北の柔術が、一つのルールで対峙する時を迎える。

ただし、当時の最大の大会であったグアナバラ州選手権でエリオ・グレイシーから「ファダのところの選手とは戦えない」という発言があるなど、両者の間には確かな溝が存在していた。

柔術を名乗っていても、技術的にも両者には違いが見られた。当時の柔術界は道場間の交流はほぼ見られず、それぞれが特色を持った時代でファダ~サラマォンの柔術では、グレイシーが力を入れていなかった足関節が発達していた。

足関節はグレイシー系の柔術を学んだ者にとっては、卑怯者が使う技というイメージがあり、前述したセザーなどは幼少の頃に、グレイシー系の柔術家からはスブービオ柔術の選手に足関節を揶揄しつつ、多分に差別的表現が用いられた野次を常に会場で耳にしていたことを明かしている。

この傾向は1990年代に柔術が米国で普及し始めた時に、ストレート・フットロックで勝つ米国人に対し、ブラジル勢が大ブーイングを送るほど、根強く残った柔術の一面だ。

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

「当時の柔術にはスイープにはポイントがなく、足関節で失敗して相手に立たれてもポイントを失うことがなかったんだ。

同時に僕らは攻め以上に防御の練習をしたし、アカデミーの練習でケガをするなんてことはなかった。ディフェンスも発達していたから、極まらなかった場合は逃げた相手のバックを取るとか、足関節を足関節で終わらせない技術を持っていたしね。今の柔術は外掛けが禁止になったから、足関節は凄く限定的な技になった。現代柔術は足関節だけでなく、そこから次の動きも失ってしまったんだ」(2005年8月1日、ジュリオ・セザー)。

トランジッションとしての足関節。このインタビューから10年を過ぎた頃に、ジョン・ダナハー門下のエディ・カミングス、ゲイリー・トノンらがサドル・ポジションというトランジッションと足関節を駆使して旋風を巻き起こすことになる。実際に使われていた技術がいかようなものだったか今や知るすべはないものの、1980年代のスブービオ柔術では技の繋ぎとしての足関節を有していたことはニヤリとしてしまう。

足関節を巡る技術的対立、そして政治的な部分での折り合いの悪さは結局、富める者=南の柔術が北の柔術を統べることとなっていく。その大きな要因の一つにファダが、弟子に柔術界の動向を任せたかのように、表舞台に立たなくなったことが挙げられる。

そしてスブービオ柔術は、南側の人間の露になった軽蔑の視線、言動から逃れるために彼ら独自のテクニックを封印して技術的にも南側へ歩み寄り、競技運営のイニシアチブも南の人間に決定的に譲ることとなった。

グレイシーとは対照的に、一族内に後継者を育むことに力を入れていなかったファダは、カーロス・グレイシーJrによる国レベルの連盟発足を直後に控えた1990年、48年間続いたアカデミーの門を閉じている。

1994年、スブービオに進出してきたカーウソン・グレイシーの教え子セバスチャオン・ヒカルドから黒帯を授かっていたアレッシャンドリは北側で最大勢力を誇るようになったメーロ・テニスクルービー勢を率いて、カーウソン・グレイシー系のアンドレ・ペデネイラスと合体、北と南の柔術が手を結びノヴァウニオンを結成した。この後、技術的にもスブービオ特有の技術、南リオの柔術家が得意とする技など存在しなくなり、ブラジリアン柔術には北も南もなくなった。ここにスブービオ柔術は、52年の歴史に終止符を打ったといえよう。

ノヴァウニオンが誕生する前年にはUFCがホリオン・グレイシーの手によりスタートし、柔術は世界への伝播を始めた。この時にホリオン・グレイシーの語る柔術正史のなかに、当然のようにスブービオ柔術もオズワウド・ファダの名が確認されることはなかった。事実上グレイシー系=南が、北=スブービオを統一したという見方が成り立つ。

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

ブラジルのメディアでいえば、その担い手の多くが南リオの人間の手によって発刊されており、ファダ柔術という文字が雑誌に載ることもなかった。2005年4月1日、マスター・ファダが亡くなるまで。

ファダとスブービオ柔術は柔術界に何を残したのだろうか。

答は明白だ。ムンジアルやMMAで活躍するブラジル人選手は南リオの富裕・中流層ばかりでない。南リオ自体がブラジル最大級のフェベイラが点在するようなり、その貧しさの中から柔術やMMAで人生を切り開いた選手がどれだけ存在していることか。

柔術でいえば競技柔術としての側面を見てみても、幼年クラスの充実ぶりは目を見張るものがある。

オズワウド・ファダの夢、目指した未来──「ジウジツ・エ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス」(誰にでもできる柔術)は結実し、スブービオ柔術の息吹は、今日も柔術会場でブラジル各地のアカデミーで吹き続けている。

追記──今回、2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を加筆したうえで再録させてもらったが、あれから15年を経て、2014年のFIFAワールドカップ、2016年のリオデジャネイロ五輪後には北のスブービオと南のヒキーニョの経済格差は、さらに広まっているということをリオの旧友M・Dに教えてもらった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、格闘技メディアとして活躍後──MMAへの造詣の深さと英語力を買われ、某巨大MMA組織の支社で働くようになった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

そして、今ではM・Aと同じバッハ・デ・チジューカの住民になっている。

「今でもバッハでは道を間違ってばかりだよ」と笑う彼もまた、柔術が誰にでもできる時代になったことで、人生を切り開くことができた1人だ。
Special thanks to Andre Araujo, Martins Denis and Rosa Fadda

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Interview Special フランク・シャムロック ブログ

【Special】第2回、MMA版あいつ今何してる? フランク・シャムロック─02─「もう十分にやってきた」

Frank Shamrok【写真】2010年8月のフランク、この時から10年を経て当時は1歳だった娘との生活が彼の中心になっていた(C)MMAPLANET

MARTIAL WORLD Presents新訪問シリーズ=「MMA版あいつ今何してる?」──第2回は日米を股にかけてMMAの創世記から、定着&発展期に常にトップファイターとして活躍したフランク・シャムロックだ。

MMAを世界的なスポーツ・エンテーテイメントに引き上げたZuffaとダナ・ホワイトとの関係は続かず、フランクはUFCのライバル団体で戦い、コメンテーターやアナリストとして活動し続けた。

StrikeforceからBellatorまでスコット・コーカーとの仲は絶対だ。しかし、今やフランクの姿をMMAシーンで見ることはない。今、フランク・シャムロックは何をしているのだろうか。
Text by Keith Mills

<フランク・シャムロック インタビューPart.01はコチラから>


──完全にダナ・ホワイトとは相まみえない関係になったということだね。

「ダナ・ホワイトは過去20年に渡り、多大なる努力でMMAを発展させてきた。素晴らしい業績を残したことは絶対だよ。そして、今もまだMMAをさらに上へのレベルに引き上げようと身を削って働き続けている。彼はMMA界の全ての人間から祝福を受け、感謝されるべき存在だ。

ただし、個人的な付き合いでいえば、彼に限らず他の人間に自分の人生を預けることはできない。彼と一緒にいて食事をするような仲でいようとは思えないよ」

──そんなフランクは今、どう過ごしているんだい? 2016年あたりまでBellatorとは仕事をしていたけど。

「まだTV製作を続けているよ。TVショーに映画、タレントのマネージメント業務も。僕が人生で学んだことを生かして、タレントの活動や、資産運用管理も行っている。なにより、フルタイムの父親……専業主夫でもある(笑)。多くの時間を父親として過ごすようにして、学校に送り迎えをして、ホームワークを手伝う。

小さな娘を相手に常に父親である時間は、とてつもなく良い経験になっているよ。これほどハードワークだって、分かっていなかった。それがベラトールの仕事から、距離を置くようになった一番の理由なんだ。

実際にベラトールからは、一緒に仕事を続けようと言ってもらえていたよ。でも、もう僕のなかではこういう生活とはオサラバしようと決めてしまっていた。『これからも自分が飛行機に乗って、世界中を飛び回る。そんな姿が想像できないんだ。もう十分にやってきた。そういうことなんだよ』と伝えたよ」

──それは思い切った決断だったね。

「凄く驚かれたよ。『お前、マジか?!』みたいにね(笑)。でも、可能な限り子育てに集中することが、僕の人生のなかでも最高の経験になった。息子はもう31歳になって、僕の慈善事業を手伝ってくれている。

そして11歳の娘もいる。大人になった息子と、まだ少女の娘との生活は最高なんだ。これまでにないくらいに、ね。

そしてさ、あの子が年頃になった時にボーイフレンドを指導前のジムに連れてくるんだよ。僕はマットの奥にいて、そいつは数々のトロフィー、ベルト、そして僕の試合が映っているスクリーンの前を通った時、目の前にいる父親がどんな人間が分かるんだ(笑)。『パパ、止めて!!』って娘が必死になる。そんな日が来ることが、楽しみでならないんだ」