【写真】1972年10月12日生まれ、プロデビューは34歳11カ月。そこから本格的にプロを目指し、50歳と1カ月でラストファイトを迎える宮崎 (C)SHOJIRO KAMEIKE
12月4日(日)、山口県周南市の新南陽ふれあいセンターで開催されるTORAO28のメインイベントは、毛利昭彦×宮崎“師範代”清孝の地元勢対決となった。
Text by Shojiro Kameike
今回がラストマッチと公言している宮崎は、今年50歳。山口県の西部、宇部市でMMAジム「有永道場Team Resolve」を運営している。その宮崎がMMAを始めた経緯と、山口県西部のMMA事情――そしてラストマッチで戦う毛利との関係性を語ってくれた。
――宮崎選手が所属している有永道場というのは、もともとは空手の道場なのですか。
「はい。私は極真会館の山口支部で空手を始めて、現館長の有永浩太郎と一緒に独立したんです。有永道場の本部は山口市にあるのですが、宇部市でも空手の稽古をしたいという仲間が増えてきて、宇部市に支部をつくり私が担当することになりました」
――極真空手を始めようと思った理由は何だったのでしょうか。
「格闘技への興味は他の男の子と同じぐらいで……ボクシングとかを見ていた程度でした。空手を始めたのは、ずっとお世話になっている叔母がキッカケです。私は高校まで野球をやっていたものの、野球部の上下関係の理不尽さに我慢ができなくて(苦笑)。部活を辞めてフラフラしていたのですが、叔母から『このままではロクな大人にならない。私の知り合いに空手の先生がいるから、その道場に入りなさい』と言われました。
仕方ないか……と思って空手道場に入ったら、最初はやられるわけですよ。でも、そこから本気になり、やっていくと楽しくなっていきました。自分の性に合っていたんでしょうね。自分で考えながら練習し、成果が出て来ると楽しかったので」
――フラフラしていて空手道場に入れられるということは、その時期はヤンチャな生活を送っていたのですか。
「いや、それほどは……(苦笑)。警察がどうこう、という経験はないです。でも、嫌なものは嫌ですからね。結局は――パンクだったんです(笑)」
――アハハハ。パンクであることは、セックス・ピストルズ式のチームTシャツを見ても分かります。しかし上下関係の問題から野球部を退部していたとのことですが、空手道場の上下関係はいかがでしたか。
「厳しい of 厳しい、でした。でも先輩たちとは年齢も離れていて、その厳しさも礼儀作法に関するものだったりするわけですね。部活は1歳上ぐらいの先輩から、よく分からないことを言われるんです。なぜ自分がそれをしないといけないか分からないという感じで。だから空手道場の上下関係は、苦ではなかったです」
――理不尽か理不尽ではないかという違いですね。
「そうです。結局は自分が納得できるか、できないかで。空手の場合は、納得いかないことがあっても、道場の組み手で――ちゃんと成敗されるわけです(笑)。私も生意気でアホだったので、先輩に目をつけられることもありました。でも、そうやって白黒ハッキリする世界が好きだったんですね」
――当時の山口県では、そうやって強くなるためには空手しか選択肢しかなかったのですか。
「空手かボクシングですね。当時の極真空手は、世界大会が行われたら格闘技雑誌の増刊が出るぐらいだったじゃないですか。その極真空手をやっていれば強くなれる──そう思っていました。空手が最強だと思っていたし、実際にやっていて楽しかったですから」
――将来的にも、ずっと空手をやっていこうと考えていたのですか。
「いえ、現役時代は中国選手権で2位、全日本選手権でベスト8に入ってから、26歳の時に空手は引退したんです。そこからはゆっくりと音楽を聴きながら、美味いものを食って生きていこうと思っていました。特に空手を辞めてドラマーになるという夢もあったのに、35歳でMMAを始めて50歳まで続けているという(笑)。MMAを始めたのは、高校時代から一緒に空手をやっている仲間が突然『自分は寝技がやりたい』と言ってきて」
――突然、ですか(笑)。
「自分も寝技はやったことがないので分からないし、当時は周りに寝技をやっている道場もなく、今のようにインターネットで検索できる時代でもなかったので。そこで山口県内を調べてみたら、毛利道場というところがあると分かったんです。その頃は防府市に格闘技をやっている仲間がいて、その練習場所に行ったら毛利さんがいました」
――今回ラストマッチの相手となる毛利昭彦選手ですか。
「そうです。その毛利さんたちと3カ月ぐらい寝技の練習をしてから、MMAのスパーリングをし始めて、毛利さんから『一緒にやりませんか』と言っていただいて。そこから私も周南市の毛利道場へ行くようになりました。今のジムではなく、まだ毛利さんのご実家の倉庫でやっていた頃です」
――MMAのスタートは毛利選手との出会いがキッカケだったのですね。
「そうやってMMAの練習を始めて半年ぐらい経ったあと、2007年だったかな? 周南市のclubDEEP、フューチャーキングトーナメントが開催されたんです。でも当時はまだ山口県内でMMAをやっている人も少なくて、70キロ級に出場してくれないかと言われまして。自分としては無理だなと思ったのですが、どうしてもと言われて――出場したら案の定、腕十字で負けました(2007年9月23日、田口トシヒロ戦にて1R腕十字で一本負け)。
アハハハ、当然ですよね。でも自分自身に対してムカついて、そこから本腰を入れてMMAに取り組むようになり、アマチュア修斗に出始めました。でも、やっぱり勝てない。周りにMMAを教えてくれる人もいない。だから出稽古に行って、いろんなセミナーに参加しながら創っていて、どんどん形になってきたという流れです」
――ではMMAを始めた頃は、何を目標として練習していたのでしょうか。
「強くなりたい、始めたからには本気でやりたい。それが目標でした。始めた時点で自分も若くはないし、そこから自分がUFCに行けるかといえば、行けるわけがなくて。修斗のチャンピオンになれることもないでしょう。ただ、MMAをやっていると楽しくて、一緒に練習したいという子たちも増えてきました。そうした子たちが宇部でMMAができる環境を創り、その道標になりたかったです。そのためにはまず自分がプロ選手にならないといけない。修斗は定期的にアマ修斗を開催していて、そこで勝てばプロになれると思い、まずは修斗でプロになることが目標でした。
ただ年齢も年齢ですし、仕事をしながらジムもあって――その状況では、自分はそれほどプロで試合はできないことは分かっていて。それでもプロになってから、最後の試合は決めていました。『地元で毛利さんとやる』と」
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【TORAO28】宮崎清孝、MMAの旅路。最終章─01─「最後は『地元で毛利さんとやる』と」 first appeared on
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