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ABEMA Fighter's Diary Interview J-CAGE WEC44 アントニオ・バヌエロス ブログ 大沢ケンジ

【Fighter’s Diary con on that day】「試合がない日々」を生きる大沢ケンジの声 on 2009年11月18日

Osawa【写真】10年5カ月前、MMAPLANETにおける唯一の現役時代の大沢ケンジ・インタビュー(C)ABEMA&MMAPLANET

全世界を巻き込む新型コロナウィルス感染拡大の影響は当然のように日本の格闘家たちの人生にも影響が出ている。試合がない、大会が開かれない、練習場所の確保も困難だ。

そんな今、格闘技を愛する全ての人へ──ABEMA格闘CH が公式YouTubeチャンネルで Fighter’s Diary Ep.03が25日(土)より、アップされている。

完結編=第3弾でクローズアップされた格闘家は那須川天心、山本美憂、松嶋こよみ、和田竜光、大沢ケンジ&上迫博之、藤野恵実の7人だ。

Fighter'sDiaryFighter’s Diaryは3週に渡り、3つのエピソードで総勢16人の格闘家たちの声をYouTubeで伝え、26日(日)より、ABEMA格闘CHにて Fighter’s Diary完全版が放送されている。

そんなFighter’s Diaryでは「試合がない日々」を格闘家たちはどう生きるのか? ──という今の声を集めた。MMAPLANETでは、タイアップ企画ならぬボーディング企画を提案。MMAファイター達が今を発せられるようになった原点を探る上で、あの日の彼らや彼女達の声=on that dayとして、MMAPLANETインタビュー初登場時の声を紹介したい。

題してFighter’s Diary con on that day、第15回は2009年11月20日公開、11月18日(現地時間)に現地取材した── WEC44アントニオ・バヌエロスと戦った直後──大沢ケンジのあの日の声をお届けしよう。


<リードを含めた完全版はコチラから>

――非常に惜しい試合と言いたくなる内容だったのですが。

「2Rは良かったですね。まぁ、1Rも前蹴りが変なタイミングで足をついてしまったところにパンチを喰らったんですけど、最初の2Rはフェイントが上手く機能していたと思います」

――その機能していた1Rにパンチを受けて、尻持ちをついたり、下を向いて次の一手を受けてしまったのは痛かったですね。


「後ろに倒れたのは、足が揃っていたんでしょうね。打ち終わりに右だったと思います。でも、ああいう風に突っ込んでくるのは、体の勢いがあるので、戦っている最中はダウンをしても、気をつけておけば問題ないな、平気だなっていうのがあったんです。やるべきことをやっていようと」

――そして2Rは完全に試合を支配することができた。しかし、3Rは距離を詰められて、攻め返すことができなかったです。

「前に出てしまうと、何かただの打ち合いになってしまうかなって。そこは礒野さんと話をしていたんですが、前蹴りを続けていればよかったのに、左ミドルと左ジャブが入るから、コツコツ当てればボディで倒せるかなって考え違いしてしまったんです。あそこでもう一回、前蹴りでさがらせて戦っていれば、結果も変わっていたかもしれないです」

――この一戦は負けられないといっていた試合で敗れてしまったことについては?

「う~ん、もうちょっとガッカリですね。これでリリースされる覚悟はあります。リリースされたら、う~ん、ちょっと考えるところですね」

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Ironheart Crown Special The Fight Must Go On エリック・ムーン ステファン・ボナー ブログ ミゲール・トーレス

【The Fight Must Go On】イベントプログラム・シリーズ─04─2004年6月5日、Ironheart Crown@ハモンド

IHC【写真】ホイス・グレイシーの道着を掴んでアッパーを入れたキース・ハックニーの教え子ギディオン・レイとミレティッチMMAのジェイソン・ブラックがメインで戦った(C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾はMMAPLANET夜明け前のイベントプログラム・シリーズ……その第4回として2004年6月5日、IRONHEART CROWN(IHC)のパンフレットを捲ってみたい。


IHCはハワイのヘウソン・グレイシーの下で柔術を学んでいたエリック・ムーンが、ドクターとして勤務にしていたイリノイ州シカゴで興したMMA大会だ。第1回大会は1999年11月、2001年までは本業の過密勤務のなか年に1度のペースが行われていた。最初の2回はイリノイ州がパウンド有りのファイトを認めなかったため、グラウンドでは打撃なしのKOKやZSTルールのようなルールが使用されていた。

IHC03第3回からシカゴ市の東隣、インディア州ハモンドを開催地としパウンド有りに移行する。

2002年10月の第5回大会よりUSA修斗の認可を受けてプロ修斗公式戦を組むようになり、修斗アメリカス王座決定トーナメント及び王座決定戦を組むなど、中西部のプロ修斗公式戦を担うようになっていった。

IHC02ここでパンフを紹介する2004年6月大会でも10試合のプロ修斗公式戦が組まれ、後にミゲール・トーレス、ステファン・ボナーというMMAに名を残すファイターが出場している。

この他、テリー・マーチン、アントニオ・カルバーリョ、メインで戦ったジェイソン・ブラック✖ギディオン・レイと6人の同大会出場選手がUFCにステップアップを果たしている。

この後、来日も果たしたアントニオ・カルバーリョ

この後、来日も果たしたアントニオ・カルバーリョ

IHCはシカゴや中西部勢が主流であったが、修斗公式戦を組むようになり日本で戦うチャンスを得るために主催者にコンタクトを取るファイターも見られ、前述したカルバーリョはカナダのオンタリオから、対するクリス・アレンはコロラド州デンバーから遠征してきた。

ムーンは本職でないが故に、自らの理想を追求するためにビジネスを度外視た部分もあり、そんな彼のパッションがこのようなローカルに関係のない高水準のカードのマッチアップに通じている。

その試合で勝利したカルバーリョは、ムーンの熱意を背に受けたようにIHCに続き、カナダ・バンクーバーで修斗の試合を組むようになったWEFを経て来日を実現させる。佐藤ルミナと日沖発に勝利したカルバーリョは、GCMのCAGE FORCEやカナダで一時期、比較的に規模の大きな大会を開いていたSCORE Fighting SeriesからUFCに辿り着いた。

一方、クリス・アレンはドウェイン・ラドウィックの同門で、コロラドのRING OF FIREでK-1ルールでも活躍していた打撃系MMAファイターだ。彼はカルバーリョとは対照的に、メジャー進出を逃しROFで2010年にキャリアを終えている。ROFはアレン以外にアルヴィン・ロビンソン、そしてドナルド・セラーニを輩出したロッキーマウンテンのフィーダーショーで、プロモーターとマネージャーを兼ねていたスヴェン・ビーンはセラーニをケージフォースに来日させ、今では北米最大のフィーダーショー=LFAの副社長を務めている。

修斗グローブが新鮮なボナー

修斗グローブが新鮮なボナー

2005年にTUFによりUFCがメインストリームに闊歩するようになる前年、2006年12月のZuffaによるWECの買収=フェザー級以下のメジャー化プロジェクト開始まで2年半。

来るべき時がくれば花を咲かせ、実をつける以前、そんな時代の到来を夢見た関係者たちが、全米各地で見られ、日本も絡めたうえでIHCもまた、当時のMMAシーンを象徴するイベントともいえる。

後列右端がムーン。共同プロモーターのブラウリオ・コラルが何やら耳打ち。ムーンの方を見ているのが、キース・ハックニー。中腰の背広姿はコンバット・ドーのボブ・シュマー、ホゼ・トーレスを育てた。後列左端がエクストリーム・チャレンジのモンテ・コックス、前列は右端がHnHのジェフ・オズボーン、ジェンス・パルバー、ジェフ・カーラン、そしてカーウソン・グレイシーJr

後列右端がムーン。共同プロモーターのブラウリオ・コラルが何やら耳打ち。ムーンの方を見ているのが、キース・ハックニー。中腰の背広姿はコンバット・ドーのボブ・シュマー、ホゼ・トーレスを育てた。後列左端がエクストリーム・チャレンジのモンテ・コックス、前列は右端がHnHのジェフ・オズボーン、ジェンス・パルバー、ジェフ・カーラン、そしてカーウソン・グレイシーJr

WEC世界バンタム級王者として凱旋したトーレス

WEC世界バンタム級王者として凱旋したトーレス

IHCはイリノイ州でMMAが認められるようになった後、2008年11月にイリノイ大学シカゴ校=UICパビリオンで最後の大会を行い、ムーンはMMAから勇退し医療に専念。既に修斗公式戦でなくなっていた最後のIHCのメインにはハファエル・アスンソンが出場、第5試合ではリカルド・ラモスが判定勝ちを収めている。

翌2009年4月に所も同じUPIパビリオンにWECが進出し、メインでミゲール・トーレスがWEC世界バンタム級王座防衛戦を──この大会が開かれた2004年に全日本アマ修斗で優勝し、翌年プロとなった水垣偉弥を相手に行っている。

さらにはアスンソン、ジェフ・カーランというIHC卒業生が全米にライブ中継されたイベントで戦った。

MMAがまだ世の認知を受けていない頃から、エリック・ムーンをはじめIHCに関係していたファイターやコーチ、関係者の夢見ていた世界は、ここに結実したといっても過言でないだろう。

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ABEMA Fighter's Diary Interview J-CAGE ブログ 藤野恵実

【Fighter’s Diary con on that day 特別編】「試合がない日々」を生きる藤野恵実がBBAになった、日。

Emi-Fujino【写真】この頃になると、随分と失礼な問に対して、藤野は堂々とやりとりしてくれるようになっています (C)ABEMA & MMAPLANET

全世界を巻き込む新型コロナウィルス感染拡大の影響は当然のように日本の格闘家たちの人生にも影響が出ている。試合がない、大会が開かれない、練習場所の確保も困難だ。

そんな今、格闘技を愛する全ての人へ──ABEMA格闘CH が公式YouTubeチャンネルで Fighter’s Diary Ep.03が25日(土)より、アップされている。

完結編=第3弾でクローズアップされた格闘家は那須川天心、山本美憂、松嶋こよみ、和田竜光、大沢ケンジ&上迫博之、藤野恵実の7人だ。

Fighter'sDiaryFighter’s Diaryは3週に渡り、3つのエピソードで総勢16人の格闘家たちの声をYouTubeで伝え、26日(日)午後7時より、ABEMA格闘CHにて Fighter’s Diary完全版が放送される。

そんなFighter’s Diaryでは「試合がない日々」を格闘家たちはどう生きるのか? ──という今の声を集めた。MMAPLANETでは、タイアップ企画ならぬボーディング企画を提案。MMAファイター達が今を発せられるようになった原点を探る上で、あの日の彼らや彼女達の声=on that dayとして、MMAPLANETインタビュー初登場時の声を紹介したい。

題してFighter’s Diary con on that day、第14回は再び、藤野恵実の登場と相なった。今や「BBAなめんな」という彼女の名刺代わりの言葉が初めて聞かれた共同会見を再録──2018年5月8日公開、同日にシャロン・ジェイコブセン戦に向けての公開練習──藤野恵実がBBAになった日の声をお届けしよう。


<リードを含めた完全版はコチラから>

淑女座りも披露。「籐の椅子を持ってきてほし」と言った──ということはない

淑女座りも披露。「籐の椅子を持ってきてほし」と言った──ということはない

──久しぶりのパンクラスですが、どのような心境ですか。

「前に出たのが5年前の5月で、ちょうど5年ぶりなんです。そこから殆ど海外だったので戻って来られて嬉しいという気持ちがあります」

──インヴィクタに上がっている選手が相手ですが、この先を意識して戦うことをありますか。

「今はこの試合だけを考えていたいので、まずは今回きちんと勝つこと。先は結果次第でついてくるものだと思っています」

──ジェイコブセンの印象を教えてください。

「自分と似ているタイプですね。レスラーですけど、ケージに押しこんで削って来る。勢いもフィジカルもある相手なので、同じ土俵でどっちが強いのかが勝負になると思います」

──レスリングで実績があるようですが、スキル的にも手強いと思っていますか。

キャリア5勝2敗、インヴィクタで3勝1敗のジェイコブセン(C)INVICTA FC

キャリア5勝2敗、インヴィクタで3勝1敗のジェイコブセン(C)INVICTA FC

「自分からテイクダウンを狙うつもりです。もうディフェンスよりも、自分から攻めないと勝てないと思うので」

──試合展開としては、そういう部分の勝負になってきそうですか。

「向うのテイクダウンをディフェンスするよりも、自分から積極的に攻めていきたいと思っています」

──対戦相手がエイミー・モンテネグロから変更されましたが、その辺りの影響はありませんでしたか。

「いつもことなので。ROAD FCなんて4度ほど代わったりして……(笑)。代わらないことがあんまりなかったので、何とも思わないです」

──元の相手の方が戦いやすかったという気持ちはないでしょうか。

「そうですね(苦笑)。ちょっと、あります。でも強い相手と戦いたいという希望を持っていたので、分かりやすく強い方が良いかと思います」

──非常にタフで、打撃を受けても勝負を諦めない選手です。

藤野のいう通り、本当に気が強そうな対戦相手だ(C)INVICTA FC

藤野のいう通り、本当に気が強そうな対戦相手だ(C)INVICTA FC

「タフな試合になることは想定しています。どっちがタフなのかという戦いになると思います。フィジカルも気持ちも強くて対戦相手として申し分ないので、面白い相手を連れてきてくれた坂本(靖。パンクラス・マッチメイカー)さんに感謝しています」

──それはモンテネグロよりも、ジェイコブセンの方が強いという認識でいるということですか。

「それは前の相手に失礼になるので(笑)。でも実績的にも映像を見ても、代わった相手の方が強いと思っています。パンクラスさんのグッドジョブです。あと何試合戦うことができるのか分からないので、弱い相手を連れてこられても別に楽しくもないので。せっかくなら強い相手を呼んでもらえる方がありがたいです」

──ここ数年、タイトルというものに拘りを持って来ましたが、それはパンクラスでも変わりませんか。

「まず勝たないと何も言えないので、そこからです。これに勝ったら、ちょっと言います。チャンスをくれって。まだ1回も勝っていないので、今ソレを言っても説得力がないです」

──国内で今、女子の試合が盛んに行われていますが、海外でずっと体を張ってきた自身の試合と他の選手の違いをどのように捉えていますか。

「えぇ……(苦笑)。まぁ女子は幅が広くて、比較的誰でも出やすいのでレベルの差があるんですけど……普通に女子も男子も関係なく、MMAの試合として見てもらいたいので、それなりにレベルの高い試合をしたいと思っています」

──盟友の浜崎朱加選手がRIZINで勝利し、V.V Mei選手は藤野選手の前日にONEで戦います。そのなかで最後に戦うことに関して、どのような気持ちですか。

「ホント、若手にはババァ追い越してみろよって思っているので。浜ちゃんも言っていたのですが、誰も挑戦してこないのはぬるいなって本当に思っています。名前を出せよって、これだけいるんだから。それもあって皆、日本に対戦相手がいなくて外に出ていったわけじゃないですか。

女子の格闘技と言っているんだったら、喧嘩でも売ってこいと思っています。浜ちゃんの試合は凄くレベルが高くて、一本取れなかったけど地上波で流してもらったのは嬉しかったです。強いな、浜崎朱加と思ったので。

Vはこれからですけど、前回の試合もあの時のベストファイトぐらいになっているので、やっぱりそういう試合を私達はできるし、皆で見せていきたいと思っています。どこまで持つかも分からないですけど、下の子たちでは手が届かない場所、レベルで戦いたいです」

──改めて、この試合でどういった姿を見せたいですか。

「ババァ舐めんなよって。やってきた量も誰にも負けないと思っているので。それを試合で出したいです。氷河期からやってきた怨念みたいなものを皆、持っているので。良い所だけ持っていくなよ、トントンって(笑)」

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ABEMA Fighter's Diary Interview J-CAGE WSOF ブログ 藤野恵実

【Fighters’s Diary con on that day】「試合がない日々」を生きる藤野恵実の声 on 2014年6月19日

Fujino【写真】この頃のMMAPLANETは国内女子MMAとは距離があり、藤野恵美をまるで弄ることができていない頃です(C)ABEMA & WSOF

全世界を巻き込む新型コロナウィルス感染拡大の影響は当然のように日本の格闘家たちの人生にも影響が出ている。試合がない、大会が開かれない、練習場所の確保も困難だ。

そんな今、格闘技を愛する全ての人へ──ABEMA格闘CH が公式YouTubeチャンネルで Fighter’s Diary Ep.03が25日(土)より、アップされている。

完結編=第3弾でクローズアップされた格闘家は那須川天心、山本美憂、松嶋こよみ、和田竜光、大沢ケンジ&上迫博之、藤野恵実の7人だ。

Fighter'sDiaryFighter’s Diaryは3週に渡り、3つのエピソードで総勢16人の格闘家たちの声をYouTubeで伝え、26日(日)午後7時より、ABEMA格闘CHにて Fighter’s Diary完全版が放送される。

そんなFighter’s Diaryでは「試合がない日々」を格闘家たちはどう生きるのか? ──という今の声を集めた。MMAPLANETでは、タイアップ企画ならぬボーディング企画を提案。MMAファイター達が今を発せられるようになった原点を探る上で、あの日の彼らや彼女達の声=on that dayとして、MMAPLANETインタビュー初登場時の声を紹介したい。

題してFighter’s Diary con on that day、第13回は2014年6月20日公開、6月19日(現地時間)に国際電話で取材が行われた──待望のWSOF初戦=ジェシカ・アギラー戦を翌日に控えた──藤野恵実のあの日の声をお届けしよう。


<リードを含めた完全版はコチラから>

――いろいろとドタバタがあったWSOF参戦ですが、試合を直前に控え、現在の意気込みを聞かせてください。

「やれることはやってきたので、今は普段通り穏やかな気持ちです」

――この半年、どのようにモチベーションを持たせたのでしょうか。

「試合があることは信じていたので、私がやるべきことは練習のみだと思っていました。いつでも戦える準備をしていただけです」

――では現在の体調は?

「今までで一番ベストです」

――3月にVV.Mei選手のセコンドとしてフィリピンで海外大会を経験しました。そこで学んだこと、そしてWSOFの対応はいかがでしょうか。

「日本よりMMAや選手に対するリスペクトがあり、すごく盛り上がっていると感じています。より試合に集中できる環境が与えられています」

――ジェジカ・アギラーの印象は?

「昨日挨拶をしたら、すごく良い方でした。すべてに強いオールラウンダーなので、試合できるのが楽しみです」

――彼女と戦うことで、必要だと思い磨いてきた部分はありますか。

「5ラウンド戦うことを一番に考えて練習してきました。普段の練習にフルラウンド戦えるスタミナをつけるよう練習しました」

――では、ジェシカと戦ううえで、藤野選手のアドバンテージはどこだと考えていますか。

「それは……やってみないとわからないです」

――では、最後に日本のファンにメッセージをお願いします。

「自分らしく自分勝手にやりたいことだけやります。応援よろしくお願いします!」

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Interview J-CAGE ONE other MMA Road to ONE02 ブログ 宮田和幸 田中路教

【Road to ONE02】田中路教─03─最初で最後のグラップリング戦の理由。「負けたくないんで、他の練習が」

Nori【写真】柔軟性のないまま、突っ走るしかない(C)MMAPLANET

17日(日)に開催されたRoad to ONE02で宮田和幸とグラップリングマッチを戦い10分間時間切れとなった田中路教インタビュー最終回。

グラップリングマッチを終え、MMAファイター田中にとって打撃なしの組みの重要性、そして未だに終着点が見えないコロナ感染拡大のなか、LFAでの活動をどのように捉えているのかを尋ねた。

<田中路教インタビューPart.02はコチラから>


──スクランブルにはならなくても、MMAに生きるグラップリングになったのですね。

「グラップリングの試合をして、自分の不器用さが浮き彫りになったと思います(苦笑)」

──田中選手の最大の特徴である、経験しないと分からないという流れですねか(笑)。

「一つのことにしか、なかなか集中ができないんで(笑)」

──ただ、SNSで『これが最初で最後のグラップリングマッチ』という話がありましたが、『これが最後の日本での試合』とはならないのですか。

「まぁLFAと契約は結べましたが、その契約書をもってビザの申請に行くのに、今は受け付けてもらえない状況ですからね。これがいつまで続くのか分からないので、あの試合が日本で最後の試合になるかというのは断言できなかったです。ただ、グラップリングの試合をもうすることはないと思います」

──MMAのためになったのに、なぜグラップリングに出るつもりはないのはどういうことでしょうか。

「純粋グラップリングの技術は、僕に必要です。それはもう絶対なんです。でも、グラップリングの試合があると、練習もそこに集中してしまって……他の練習が疎かになることが今回の試合で分かりました。

やっぱり、負けたくないんで完全にグラップリングの試合のための練習ばかりになって」

──えぇ? では打撃やMMAの練習はその間はしなかったということですか。

「試合が決まったころはやっていたんです。でも、打撃のミット打ちとかやっていても、本当に集中できないことが分かって……。グラップリングの試合で勝ちたいから、打撃の練習をすることを体が拒否してしまっているような感じで(苦笑)。

MMAの練習でもパウンドも打つことができなくて……。止まってしまうんですよ」

──なんともまぁ、本末転倒じゃないですか。

「本当に……。だから、本気でグラップリングの技術を向上させるつもりはあっても、グラップリングの試合に出ることはMMAファイターである限り、止めようと思います。

練習に関しては続けます。グラップリングも打撃も僕はもって一つの局面を深堀りする必要があります。グラップリングに関しては嶋田君もそうだし、八隅(孝平)さんにセコンドについてもらって、その指示にしても凄く知識が深くて。

八隅さんのアドバイスがなければ、どんな試合になっていたか。八隅さんはきっと宮田さんがどう動くのか、全て見えていたと思います。嶋田君も1回、動画を見ただけメチャクチャ細かく指摘しれくれました。2人に比べると、僕のグラップリングの知識は全然で。結局のどれだけ自分が近視眼的にMMAをやっていたのかが分かりました。

だからこそ、この時期にグラップリングの試合ができたのはベストでした。今、MMAの練習を試合モードでしている選手なんて世界にほぼいない。そのなかで組み技でも実戦に向かうという日々を送れたのは大きいです」

──LFAの活動再開も、ビザの申請がいつから再開するのも見えないなか、今後はどのように過ごしていこうと考えていますか。

「やれることをやるしかないです。現状を見て……ここからコロナの感染が続き、格闘家だけでなく社会が疲弊してくると思います。活動を続けられなくなるプロモーションも出てくるだろうし。

結果的にファイターの需要が少なくなっていくかもしれない。なので、いつ、どこで、誰とでも戦える選手が求められる時代になる。僕自身ももっと覚悟が必要です。いつでも戦える心身状態にしておかないといけないです。

ただし、人に迷惑をかける行動はできない。そこは頭において、最大限に気を付けていきます」

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Special The Fight Must Go On アデウバウ・バチスタ エリオ・グレイシー オズワウド・ファダ カーウソン・グレイシー ジェラウド・フローヒス ジュリオ・セザー ジョアォン・アルベウト・バヘット ブログ マスター・ヘセンジ モニーゥ・サロマォン ロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス・トルペド ヴァンデウ・アレッシャンドリ

【The Fight Must Go On】MMA歴史探訪。マスター・ファダとスブービオ柔術よ、永遠に─03─

JIU-JITSU do SUBURBIO 01【写真】ファダにとって、誰もが教わることができる──生きる術として柔術を指導していた (C) MMAPLANET

国内外のMMA大会の中止及び延期、さらには格闘技ジムの休館など、停滞ムードの真っただ中です。個人的にも大会の延期と中止のニュースばかりを書かざるをえない時期だからこそ、目まぐるしい日々の出来事、情報が氾濫する通常のMMA界では発することができなかったMMAに纏わる色々なコトを発信していければと思います。こんな時だからこそ The Fight Must Go On──第28弾は歴史探訪、もう1つのブラジリアン柔術=ファダ柔術を振り返るPart.03をお送りします。

JIU-JITSU do SUBURBIO 02世界に伝わらなかったもう一つの──前田光世からブラジルに伝わった柔術、オズワウド・ファダが伝えたスブービオ柔術とは。

<MMA歴史探訪。伝えられなかったマスター・ファダとスブービオ柔術─02─はコチラから>


1920年、ベントヒベイロで生まれたファダは、17歳のときに始めて道衣に袖を通した。ブラジル海軍で南米王者の肩書きを持つバルタザゥ・カルドッソの下でボクシングのトレーニングをしていた彼が目にした、海兵が見たこともない格闘技の訓練こそコンデ・コマの教えを受けたルイージ・フランサ・フィリョが指導する柔術だった。

すぐにフランサを師事した彼は、5年後の1942年に黒帯となり、アカデミア・ファダをベントヒベイロの街に創る。もちろんファダはリオの中心で、リッチ層を相手に柔術の指導を行うアカデミア・グレイシーの存在を知っていた。

知っていたからこそ、彼はスブービオの複数の地域で「庶民のため」に柔術を指導するようになる。グレイシーはファダ柔術を蔑み、「あんなもの」という態度をあからさまにしたという。

ファダと弟子たちは、怒気も露に新聞各紙を通して、グレイシーに挑戦状を叩きつける。そして1954年、ファダの弟子たちはグレイシー・アカデミー内で、エリオの弟子と対抗戦を行い、ファダの教え子ジョゼ・ギマラエスがエリオの弟子レオニダスを絞め落とした――、というのがファダ側の言い分だ。実際にヘビスタ・ドスポルチ誌上で、勝利宣言を行っている。

ただ、この話をグレイシー側に改めて問うと「話をしただけで、本当の対抗戦など行われなかった」(ジョアォン・アルベウト=エリオの一番弟子)という返答が返って来た。

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

1954年にグレイシー・アカデミー内で行われたファダ×グレイシーの一戦の日と伝えられる写真。右がエリオ、中央はカーウソン、左がジョアォン・アルベウト

道場内の試合なので公式戦ではないという意味かもしれないし、ファダ側に言い分にしてもたった一人の勝利だけがクローズアップされているような感もないでない。

この道場マッチが灰色決着だったのとは対照的に、1955年には公衆の面前で、アカデミア・グレイシーとアカデミア・ファダの対抗戦が行われている。

カーウソン・グレイシーがヴァウデマー・サンタナを相手にエリオのリベンジを果たした日、前座試合でファダの一番弟子アデウバウ・バチスタが出場し、柔術マッチでグレイシー・アカデミーのペドロ・ヴァレンチと対戦した。

結果は時間切れドロー、この一戦を最後に、リオデジャネイロ州選手権が活発に開かれるようになる1980年代まで、ファダとグレイシーの接点は見られない。

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

1955年のグレイシーとの対抗戦に出場し、ペドロ・ヴァレンチと引き分けたとされるアデウバウ・バチスタ。バーリトゥードでも活躍したファダの高弟

ファダは北へ、グレイシーは南へ戻り、自らのテリトリーで、それぞれの選択に沿った柔術の普及に勤しむようになる。

「庶民のため」の柔術から、ファダの柔術哲学は「誰にもできる」柔術へ一歩、歩を進めていた。そんなファダの弟子のなかにはロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントスという青年がいた。トルペドの愛称で親しまれた彼は、交通事故で両足をなくしスケードボードのような、小さな車輪のついた木の板で移動を余儀されていた。

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

ファダが心血を注いだ身障者へ柔術の浸透。左からファダ、バーリトゥードを行ったこともあるトルペドことロウリヴァウ・ジョゼ・ドスサントス、ファダ勢をバイーアに招待したヴァウデマー・サンタナ、オリヴァウド・シウバ

心も塞ぎかちだったトルペドはファダの下で柔術の練習を始め、心の病を克服。

「僕も試合がしたい。ハンディキャップがない相手と戦いたい」とファダに訴えた。1960年にバイーアで、トレペドは柔術ではなくバーリトゥードに出場。マタレオンで一本勝ちを収める。

トレペドはこの後、ファダ柔術の象徴となり、ボリビア、ペルー、大西洋を北上して渡り、フランスで柔術のデモンストレーションを行うまでになったそうだ。

1970年代に入り、ファダの一番弟子だったモニーゥ・サラマォンがヴィラダペーニャで独立。

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

1975年ごろに教え子と。この中にモニーゥ・サロマォン、マスター・ヘセンジ、ジェラウド・フローヒスらが含まれているかもしれないが、当時取材をさせてもらったファダの長女ロサは彼らを判別できなかった。ロサはスブービオで幼稚園を経営し、息子のオズワウド・ジュニオールは柔術家とならず医者になったそうだ

その後もヘセンジがパブナに、ジェラウド・フローヒスもヴィラダペーニャに自らの道場を開設したように次々と弟子たちが道場を開いたことで、ファダはグレイシーが創設したグアナバラ州協会(のちのリオ州協会)とは別に、スブービオ内の協会を結成した。

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

1980年代に400人もの生徒を指導していた故モニーゥ・サロマォン。足関節に磨きを掛けた指導者で、ファダの一番弟子。テレゾポリスの柔術の大会で主審を務める。80年代を代表するスブービオ柔術の中心人物

ファダの柔術協会では「誰にでもできる」柔術の特徴として、少年クラスの充実は目を見張るものがあった。

「当時はね、優勝してもメダルもトロフィーもなくて、子供たちに人気のあったゼリーが優勝商品なんだ」と振り返るのはフローヒスの下で柔術を始め、後にメーロ・テニスクルービーで最強の子供クラスの柔術を創り上げるヴァンデウ・アレッシャンドリ(※レオ・サントスの師)だ。

彼やサラマォンの愛弟子ジュリオ・セザー(※後にGTFでホドウフォ・ヴィエイラや多くの強豪柔術家を育てる指導者に。現役時代はスブービオ柔術の代名詞である足関節=シャウジペニャの名手)も、ゼリー目当てで一流柔術家の一歩を歩み始めた口だった

1980年代を迎えると、南のグレイシーもカーウソンを筆頭に富裕層以外への指導を始め、柔術界はすそ野を一気に広めることとなる。

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

1986年、ヴィラダペーニャのメーロ・テニスクルービーで行われたリオ州選手権

結果、競技人口が増えることでトーナメントの数も飛躍的に増加した。そして南と北の柔術が、一つのルールで対峙する時を迎える。

ただし、当時の最大の大会であったグアナバラ州選手権でエリオ・グレイシーから「ファダのところの選手とは戦えない」という発言があるなど、両者の間には確かな溝が存在していた。

柔術を名乗っていても、技術的にも両者には違いが見られた。当時の柔術界は道場間の交流はほぼ見られず、それぞれが特色を持った時代でファダ~サラマォンの柔術では、グレイシーが力を入れていなかった足関節が発達していた。

足関節はグレイシー系の柔術を学んだ者にとっては、卑怯者が使う技というイメージがあり、前述したセザーなどは幼少の頃に、グレイシー系の柔術家からはスブービオ柔術の選手に足関節を揶揄しつつ、多分に差別的表現が用いられた野次を常に会場で耳にしていたことを明かしている。

この傾向は1990年代に柔術が米国で普及し始めた時に、ストレート・フットロックで勝つ米国人に対し、ブラジル勢が大ブーイングを送るほど、根強く残った柔術の一面だ。

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

1974年にヴィラダペーニャのジナーシオ・AAフレンソで行われたカンペオナート・スブービオで優勝した──10歳の時のジュリオ・セザー

「当時の柔術にはスイープにはポイントがなく、足関節で失敗して相手に立たれてもポイントを失うことがなかったんだ。

同時に僕らは攻め以上に防御の練習をしたし、アカデミーの練習でケガをするなんてことはなかった。ディフェンスも発達していたから、極まらなかった場合は逃げた相手のバックを取るとか、足関節を足関節で終わらせない技術を持っていたしね。今の柔術は外掛けが禁止になったから、足関節は凄く限定的な技になった。現代柔術は足関節だけでなく、そこから次の動きも失ってしまったんだ」(2005年8月1日、ジュリオ・セザー)。

トランジッションとしての足関節。このインタビューから10年を過ぎた頃に、ジョン・ダナハー門下のエディ・カミングス、ゲイリー・トノンらがサドル・ポジションというトランジッションと足関節を駆使して旋風を巻き起こすことになる。実際に使われていた技術がいかようなものだったか今や知るすべはないものの、1980年代のスブービオ柔術では技の繋ぎとしての足関節を有していたことはニヤリとしてしまう。

足関節を巡る技術的対立、そして政治的な部分での折り合いの悪さは結局、富める者=南の柔術が北の柔術を統べることとなっていく。その大きな要因の一つにファダが、弟子に柔術界の動向を任せたかのように、表舞台に立たなくなったことが挙げられる。

そしてスブービオ柔術は、南側の人間の露になった軽蔑の視線、言動から逃れるために彼ら独自のテクニックを封印して技術的にも南側へ歩み寄り、競技運営のイニシアチブも南の人間に決定的に譲ることとなった。

グレイシーとは対照的に、一族内に後継者を育むことに力を入れていなかったファダは、カーロス・グレイシーJrによる国レベルの連盟発足を直後に控えた1990年、48年間続いたアカデミーの門を閉じている。

1994年、スブービオに進出してきたカーウソン・グレイシーの教え子セバスチャオン・ヒカルドから黒帯を授かっていたアレッシャンドリは北側で最大勢力を誇るようになったメーロ・テニスクルービー勢を率いて、カーウソン・グレイシー系のアンドレ・ペデネイラスと合体、北と南の柔術が手を結びノヴァウニオンを結成した。この後、技術的にもスブービオ特有の技術、南リオの柔術家が得意とする技など存在しなくなり、ブラジリアン柔術には北も南もなくなった。ここにスブービオ柔術は、52年の歴史に終止符を打ったといえよう。

ノヴァウニオンが誕生する前年にはUFCがホリオン・グレイシーの手によりスタートし、柔術は世界への伝播を始めた。この時にホリオン・グレイシーの語る柔術正史のなかに、当然のようにスブービオ柔術もオズワウド・ファダの名が確認されることはなかった。事実上グレイシー系=南が、北=スブービオを統一したという見方が成り立つ。

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

オズワルド・バチスタ・ファダが記した自伝(誰でもできる柔術)。1975年にファダが著した柔術を通しての人生を振り返ったノベル

ブラジルのメディアでいえば、その担い手の多くが南リオの人間の手によって発刊されており、ファダ柔術という文字が雑誌に載ることもなかった。2005年4月1日、マスター・ファダが亡くなるまで。

ファダとスブービオ柔術は柔術界に何を残したのだろうか。

答は明白だ。ムンジアルやMMAで活躍するブラジル人選手は南リオの富裕・中流層ばかりでない。南リオ自体がブラジル最大級のフェベイラが点在するようなり、その貧しさの中から柔術やMMAで人生を切り開いた選手がどれだけ存在していることか。

柔術でいえば競技柔術としての側面を見てみても、幼年クラスの充実ぶりは目を見張るものがある。

オズワウド・ファダの夢、目指した未来──「ジウジツ・エ・ア・ケダ・ジ・コンプレクソス」(誰にでもできる柔術)は結実し、スブービオ柔術の息吹は、今日も柔術会場でブラジル各地のアカデミーで吹き続けている。

追記──今回、2005年9月発売のGONG Grapple #03、「スブービオ柔術よ、永遠に。PARA SEMPRE JIU-JITSU do SUBURBIO」を加筆したうえで再録させてもらったが、あれから15年を経て、2014年のFIFAワールドカップ、2016年のリオデジャネイロ五輪後には北のスブービオと南のヒキーニョの経済格差は、さらに広まっているということをリオの旧友M・Dに教えてもらった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

ヴィラダペーニャ出身のM・Dは、格闘技メディアとして活躍後──MMAへの造詣の深さと英語力を買われ、某巨大MMA組織の支社で働くようになった。

ヴィラダペーニャのベントヒベイロ、この街にファダはアカデミーを持っていた

そして、今ではM・Aと同じバッハ・デ・チジューカの住民になっている。

「今でもバッハでは道を間違ってばかりだよ」と笑う彼もまた、柔術が誰にでもできる時代になったことで、人生を切り開くことができた1人だ。
Special thanks to Andre Araujo, Martins Denis and Rosa Fadda

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【UFC249】UFC、ジャクソンビル市、フロリダ州ボクシングコミッション、三位一体でPPVショー復活

UFC249【写真】ガヌー✖ホーゼンストライク、セラーニ✖ペティス、ファーガソン✖ゲイジー、セフード✖ドミニク、ヴェウドゥム✖オレイニクand more !!! (C)Zuffa/UFCC

24日(金・現地時間)、UFCが5月9日(土・同)にUFC249をフロリダ州ジャクソンビルのヴィスター・ベテランズ・メモリアル・アリーナで開催をオフィシャル・プレスリリースで行った。

さらには13日(水)、16日(土)と8日間で3つの無観客大会が開かれることに関して、ダナ・ホワイトは「ファンに素晴らしい試合を提供することが待ちきれない。この最高のカードを実現できるよう会場使用を認めてくれたカリー市長(レニー・カニー=ジャクソンビル市長)、ヴィスタ―・ベテランズ・メモリアル・アリーナ、フロリダ州ボクシング・コミッションのパトリック・カニンガム事務局長、メディアパートナーのESPNならびにESPN+、そしてファンに多大なる感謝の言葉を伝えたい。私のチームは準備ができているし、ファイターも連続大会で戦いに戻れることに開かれることにエキサイトしているんだ」とリリースにコメントを寄せている。


フロリダ州では──生活するうえで欠かせないビジネス──として、既に13日(月・同)にWWEが無観客で開催が認められライブ中継が行われている。

そのフロリダ州で北端にあるジャクソンビルは、人口80万を超え市単体ではフロリダ最大の都市である。広域都市圏では140万程度でマイアミ、タンパ、オーランド周辺に続く都市圏が構築されている。米国4大スポーツではNFLのジャクソンビル・ジャガーズが本拠地としており、

今回のリリースには2015年からこの職にあるレニー・カリー市長のコメントもあり、「段階的な景気回復に向けて行動する中で、ヴィスタ―・ベテランズ・メモリアル・アリーナでUFCを開催することを誇りに思う。UFCは名高いエンターテインメントブランドであり、ジャクソンビル市の会場を使用するにあたり安全かつ賢明な計画を提示してくれた。ESPNとESPN+によって、我々の街からUFCが全米に中継されることに興奮している。ジャクソンビル市が他の都市や地域に先駆け、世界規模の国際的なスポーツエンターテインメントを手掛ける団体のイベントを開始し続けられることを光栄に思う」と話している。

またコミッションのパトリック・カニンガムが「フロリダはUFCがサンシャイン・ステートにやってくることを歓迎する。5月9日、13日、16日に開催されるイベントを認可する準備をしている。健康と安全面で実施要項書により、今回のイベントを可能にした一人ひとり、個人の安全と健康を確実にしていく。この3日間のUFCイベント移行もフロリダは今後もUFCが同州でのイベントを開けるよう、引き続きUFCと強力な関係を構築していく」とコメントするなど、今大会がフロリダ州の強力なバックアップがあることがリリースでは強調されていた。

世界女子フェザー級選手権試合=アマンダ・ヌネス✖フェリシア・スペンサーこそ、今大会では組まれていないが、現状に考えられうる最高のラインナップになったことは間違いない。また13日と16日のイベントも追って対戦カードがアナウンスされるとのことだ。

■UFC249対戦カード

<UFC暫定世界王座決定戦/5分5R>
トニー・ファーガソン(米国)
ジャスティン・ゲイジー(米国)

<UFC世界バンタム級選手権試合/5分5R>
[王者]ヘンリー・セフード(米国)
[挑戦者]ドミニク・クルーズ(米国)

<ヘビー級/5分3R>
フランシス・ガヌー(カメルーン)
ジャイルジーニョ・ホーゼンストライク(スリナム)

<ウェルター級/5分3R>
ドナルド・セラーニ(米国)
アンソニー・ペティス(米国)

<ヘビー級/5分3R>
グレッグ・ハーディー(米国)
ヨーガン・デ・カストロ(米国)

<ヘビー級/5分3R>
アレクセイ・オレイニク(ロシア)
ファブリシオ・ヴェウドゥム(ブラジル)

<ライトヘビー級/5分3R>
サム・アルヴィー(米国)
ライアン・スポーン(米国)

<女子ストロー級/5分3R>
カーラ・エスパルザ(米国)
ミッシェレ・ウォーターソン(米国)

<ミドル級/5分3R>
ホナウド・ジャカレ(ブラジル)
ユライア・ホール(米国)

<ウェルター級/5分3R>
ヴィセンチ・ルケ(ブラジル)
ニコ・プライス(米国)

<フェザー級/5分3R>
ブライス・ミッチェル(米国)
チャールス・ロサ(米国)

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News UFC UFC249 ブログ

【UFC249】5月9日(土)大会はフロリダ州ジャクソンビルで開催。13日(水)、16日(土)と3連戦で!!

24日(金・現地時間)、UFCが5月9日(土・同)に開催することを明言していた大会が、UFC249としてフロリダ州ジャクソンビルのヴィスター・ベテランズ・メモリアル・アリーナで行われることをついに発表した。

日本でも本日午前3時20分にUFCから、同3時21分にUFC アジアから同件についてプレスリリースがあり、同6時30過ぎにはUFC日本広報窓口もこれに続き──9日以降に同所で13日(水)、16日(土)と1週間で3大会が開かれることなどを明らかとしている。

※詳細は後程アップします。


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Interview J-CAGE ONE other MMA Road to ONE02 ブログ 宮田和幸 田中路教

【Road to ONE02】宮田和幸と組技戦を終え、田中路教─02─「内股を狙ったのですが、ビクとも……」

Nori vs Miyata【写真】試合序盤の立ちレスで、田中は宮田から何を感じ取ったのか(C)MMAPLANET

17日(日)に開催されたRoad to ONE02で宮田和幸とグラップリングマッチを戦い10分間時間切れとなった田中路教インタビュー第2弾。

試合直後に嶋田裕太に連絡を取り、寝技での展開での改善点を尋ねた田中だが、試合序盤のスタンド戦に関してはどのような経験ができたのか。

また嶋田の教えをMMAに生かすことができるのかを訊いた。

<田中路教インタビューPart.01はコチラから>


──嶋田選手に指摘してもらった寝技の攻防になる以前に、まずは立ちレスの展開になりました。試合前にはテイクダウンを取る宣言もありましたが……。

「レスリングでテイクダウン、柔道の投げという2つの選択肢があったのですが、実際に宮田さんを正面に見てレスリングをしようとはならなかったです。もう、これは感覚ですね。あの時、何を考えていたとか覚えていないので。隙がないって直感したんだと思います。ダブルやシングルに入ることができる軌道が見えなかったですから」

──宮田選手もその距離でテイクダウンを仕掛けるということはなかったですね。

「ハイ。なので組手勝負になりました。それもあると試合前から思っていたので、そこでもしっかりと勝負しようとは考えていたんです」

Nori vs Miyata 02──そこから投げを狙おうと。

「ハイ。最初は牽制ですね。投げることができるとは考えずに、先手をとるために出しました。

2度目は入るという感覚があって内股を仕掛けました。引手が不十分な状態でしたが、思い切り仕掛けました。いやぁビクともしなかったです。タイミングも良かったのに……。崩れるぐらいはあると思ったのですが、全く動かなかったです(苦笑)。練習ではそういうことがあっても、試合ではあれだけ崩せなかったことは過去になかったですね」

Nori vs Miyata 03──その後、もう1度仕掛けても投げられず右ワキを差されテイクダウンを奪われました。

「ビックリしました。ヒザがついたか、バランスを崩した時なんです。根本から僕の投げとは種類が違う。

僕の投げは浮かすというか、瞬間的に飛ばすモノなんです。でも宮田さんの投げは、合気道チックというか遠心力を使っているみたいな」

──達人系じゃないですか。

「そうですね、あまり食らったことのない投げでした。

力も使っているんですけど、そこ以外の要素が凄いと思います」

──そのテイクダウンからバックを許しましたね。

「上手かったですねぇ。一度、首を極めにこられて……。正直、バックを取られても早い段階で逃げる自信はあったんです」

──出ました。またバック取らせて、落とす理論。それでバックを取り続けられる選手が世界にいるというのが、もう8年ぐらい前から勝村(周一朗)さんが指摘していた部分ではないですか(笑)。

「アハハハ。2度目の投げを防がれた時点で、立ちレスで時間を費やすのは良くないって判断したんです。あのままではドン詰まりになって勝てない。なら投げられても、グラウンドになった方が良いと思いました。矢継ぎ早に動いて、宮田さんを休ませないというのが理想的な試合展開だったので。

Nori vs Miyata 04でもバックを取られて、すぐに胸を合わせることはできなかったですね。バックチョークが入る位置ではないですが、宮田さんの体にあった絞めです、アレは……。

レスリングのコントロールを利用した極めというか。

すぐには上を取れなかったですが、あのままバックを制され続けられるとも思わなかったです。逃げる自信はありました。思ったより時間が掛かっただけで」

──そして上になってからやるべきこと、その部分で嶋田選手の指摘が入ったような展開になったと。

「ハイ。本当はスクランブルの展開になってポジションを取る。それが理想の展開でした。そこから極めに移行していければと」

──宮田さんは下になると、あのまま下から仕掛け──柔術になりましたね。

「それをさせないことが大切だったのですが、やられてしまいました。僕が宮田さんをもっと動かせるまで、持ち込めなかったです」

Nori vs Miyata 05──あの時点で、MMAグラップリングでなくグラップリングになりました。

「それも想定していたのですが、隅返し風に返されてすぐに起き上った時はスクランブルになると思っていたので……あそこで宮田さんが下を続けたのは意外でした」

──もうレスリングをやり続けたから、今はスクランブルとかよりも柔術的なグラップリングを宮田さんは追及しているようでしたね。それでもオモプラッタはともかく、糸通しを狙ったのは驚きました。

「いやぁ、握力もそうだし力が強かったです」

──田中選手もMMAなら、あれだけパスを狙うこともないですしね。

「狙わないですね。だからこそ、しっかりとパスできる技術が僕には必要なんだと思いました。青木さんの言葉じゃないですが、これまでMMAグラップリングに偏っていました。だから、あそこで攻防が止まってしまう。

それ以降の攻防ができるためにも、しっかりとグラップリングの技術を身につけないといけない。それは今回の練習から試合までを通じて感じていたことです」

──パスガードにしても、純粋グラップリングとMMAでは違いもあるかと思いますが。

「それでも嶋田君が指摘されたことができるようになれば、それはMMAに生きると思います。また、しっかりとかみ砕いてこれからの練習に生かせるようにしたいですね。

嶋田君に教えてもらったことを踏まえて、ヒジとパウンド有りの目線を加えることで、その先を探っていけるんじゃないかと思っています。

それを考えると、世界的にみてもMMAの流れが現実として、止まっている中で、このグラップリングマッチを戦えたことは良かったです。試合に向けて一つの行程をこなすことができましたし、そのなかで学びが多くあり試合で改善点も見られた。

マットでのグラップリングでなく、スクランブルにはならなくても金網際での試合が続いたので、それも良い経験になりました。金網際で自分の動きにどれだけ制限が加わるのか、またどういう風になら動けるのかを実践で試すことができたので。金網があるプラス面、マイナス面を試合で理解できることも貴重な経験になりましたね」

<この項、続く>

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ABEMA Fighter's Diary Interview J-CAGE ブログ 堀江圭功

【Fighters’s Diary con on that day】「試合がない日々」を生きる堀江圭功の声 on 2018年2月26日

Horie【写真】まだ2年2カ月前──だが、ここから堀江は本当に多くのコトを経験し今に至っている(C)ABEMA & MMAPLANET

全世界を巻き込む新型コロナウィルス感染拡大の影響は当然のように日本の格闘家たちの人生にも影響が出ている。試合がない、大会が開かれない、練習場所の確保も困難だ。

そんな今、格闘技を愛する全ての人へ──ABEMA格闘CH が公式YouTubeチャンネルで Fighter’s Diary Ep.02が19日(日)より、アップされている。

第2回でクローズアップされた格闘家はKRAZY BEE軍団(朴光哲、矢地祐介、田村一聖、あい)、佐藤天、浅倉カンナ、北岡悟、堀江圭功(と高阪剛)の9人だ。

Fighter'sDiaryFighter’s Diaryは3週に渡り、3つのエピソードで総勢16人の格闘家たちの声をYouTubeで伝え、26日(日)午後7時より、ABEMA格闘CHにて Fighter’s Diary完全版が放送される。

そんなFighter’s Diaryでは「試合がない日々」を格闘家たちはどう生きるのか? ──という今の声を集めた。MMAPLANETでは、タイアップ企画ならぬボーディング企画を提案。MMAファイター達が今を発せられるようになった原点を探る上で、あの日の彼らや彼女達の声=on that dayとして、MMAPLANETインタビュー初登場時の声を紹介したい。

題してFighter’s Diary con on that day、第12回は2015年2月28日公開、2月26日に取材が行われた──キャリア7戦目=田村一聖戦を2週間後に控えた──堀江圭功のあの日の声をお届けしよう。


<リードを含めた完全版はコチラから>

──堀江選手がMMAに興味を持ち始めたのはいつ頃でしょうか。

「MMAというわけではなく、中学の頃にヘビー級のK-1に興味を持つようになったんです。その時、自分も小学2年生の頃から空手をやっていたので、『自分でもやれるのかな』と自問自答した時に『絶対に俺じゃ無理だ』って思っていました」

──どのような流派の空手を稽古されていたのですか。

「剛柔流ですね。長崎県の佐世保市で生まれ育ち、佐世保にあった道場に通っていました」

──空手を始めた理由は?

「兄が2人いて、兄弟喧嘩が多くて強くなりたいという気持ちがありました。父からも『喧嘩して、泣くなっ』と言われていたので、空手を習いたいと思うようになったんです。

ただ、自分のイメージではボコボコやりあうというモノを想像していたのが、寸止めだったので最初は『違うなぁ』と(笑)。でも続けるうちにどんどんはまっていき中学3年生まで続けました。この間、小学生や中学の時は団体も個人も全国大会には出場しています」

──それは凄いですね!!

「いえ、もう全中(全国中学校体育大会)では全く通用しなかったです。夢中になって続けている一方で、寸止めでやっている限り、自分の突きで人は倒れるのかなって思うようになっていて。中学の時は練習も嫌々やっていた部分もあります。そんなんじゃ、全国のトップレベルの選手には通用しないですよね」

──自問自答した時に『自分では無理だ』と感じる一因になっていたのかもしれないですね。直接当てる方が、実戦的だと思いがちになるのも理解できます。

(C)Pancrase

(C)Pancrase

「当時はそうでした。ただし、あの頃に伝統派でやっていたことがMMAを戦うようになり役立っているのも確かです」

──中学3年生の時に空手を辞め、MMAを目指すまで何か格闘技はされていたのですか。

「ハイ、高校1年生から高校3年生まで極真空手部があったので、フルコンの練習をするようになりました」

──剛柔流から極真空手、マス大山の道ですね。

「……。ただ、高校で自分は何か部活に入るつもりはなくて、先輩に誘われた時に『日曜日が休み』ということを聞いて入部した程度でした(苦笑)。強さへの憧れは持ちつつ、フルコン空手にガッツリと興味を持っていたわけでもなかったんです。

でも、また練習しているうちに楽しくなりました(笑)。それが……腰を痛めて、1年半ぐらい練習ができなくなってしまって。それでも極真をやっている時は、顔面はないのですが直接打撃だったのでガンガン当てて自信がきました」

──別モノなので比較はできないのですが、そういう精神面の影響があったのですね。

「遣り甲斐を感じていました。ウェイトもやり始めて、体も大きくなって来て──高校2年生の時に再び、火が点いて上京してやってみようと思うようになりました。その時、一番強くなれるのは何か、それはMMAだろう。じゃあMMAで一番強いのは何だ? それはUFCだろう。なら、そこを目指すために高校を卒業して上京してやってやろうと決めたんです」

──佐世保にいる間にMMA的なトレーニングを始めることはなかったですか。

「極真空手を高校3年の夏で引退をしたので、上京するまでの半年間はブラジリアン柔術を習っていました。佐世保にあるシスイ柔術という道場で、当時は茶帯の方に指導してもらっていたのですが、今はもっと規模が大きくなっています。

MMAをやっていくうえで、ブラジリアン柔術を習っておくことは当然だと思っていました。寝技ができないと、MMAは戦えないので」

──東京でMMAファイターを目指すということに関し、ご両親の反応はどのようなモノでしたか。

「高2の時に想いを打ち明けた時は反対されました。今も心配しているはずですが、こっちに出て来て結果を残すようになると応援してくれるようになりました。最近では長崎から東京まで試合を見に来てくれるようになって」

──それは良かったです。アライアンスMMAに入門したのは何か理由があったのですか。

「シスイ柔術で格闘技に詳しい方がいて、相談させてもらったんです。その時にアライアンスを薦めてもらい、そこからアライアンスでMMAをやろうと思うようになっていました」

──剛柔流、極真空手、そしてブラジリアン柔術を経験しての上京。どれだけの希望と自信を持って東京にやってきたのですか。

「ボコボコにされる。厳しい世界だという覚悟はありました。自信というか、『やってやる』という気持ちと覚悟でしたね」

──顔面を殴ることが許されない打撃競技、空手をやってきて顔への直接打撃、パンチへの順応は難しくなかったですか。

「意外となかったです。スパーリングで殴られる恐怖はなかった。そこは覚悟してきたことなので」

──現時点まで6戦6勝という成績を残せていることに関して、どのように捉えていますか。

「一戦一戦、本当に人生を賭けてきているので練習の時からしっかりと気持ちを入れています。格闘技に対する気持ち、格闘技が一番だという想いが行動につながり、結果に結びついているのかと……」

──剛柔流でやってきた空手が生きると思うようになったのは、いつ頃からですか。

「実はアライアンスに入って半年ぐらい経った時に体調を崩し、一度地元に戻ったんです。熱が40度ぐらいというのが続いて、入院と退院を繰り返す時期があって……」

──そんなことがあったのですか!!

「原因は最終的に分からないままだったのですが、扁桃腺を取る手術をしたら、そこから大丈夫になりました。そして東京に戻って練習を再開したぐらいから、MMAには伝統派が役立つと感じるようになりました。

それまでガツガツ殴り合うモノと思っていたのですが、自分のパンチが当たっても相手のパンチも当たってしまうと考えるようになり、距離を遠くしたんです。そこも今の戦績に通じていると思います」

──ネオブラの初戦見て、あの左ボディフックから右フックのコンビネーションは素晴らしいボクシングに見えました。

「あれはアライアンスのボクシングのトレーナーの方に教わっていた技が、自然と出ました。あのボディは見ている人は一瞬だったと思いますが、自分の感覚として、ボクって入って。効いたというのが伝わってきました。

伝統派の間合いはMMAに有効ですが、近い距離の対処法を身につけて然りです。どのような場面でも対処できるよう心掛けています」

──そして、いよいよ田村選手との試合が近づいてきたのですが。3分3Rの杉山和史選手との試合は、ネオブラの時のようにはいきませんでした。

「あの試合は……杉山選手はタフで、殴っても殴っても前に出てこられたので、そういう部分で削られました」

──自分の攻撃が効いていないかもと疑うようになるようなことも?

「速攻で終わらせようという気持ちが力みになり、その気持ちがあることで体力を消耗してしまいました。自分で自分を削ったというか、かなり疲れていました。あの試合から、色々と改善してきました。だからこそ、次は進化した自分を見せることができると思います。

今は自分の思い通りにならなかった場合の戦い方を考えつつ、そこばかり気にすると自分の勢いを消してしまうので1Rから3Rを通じて倒せるパンチ、蹴り、テイクダウン、寝技をしっかりと使えるようやっています」

──田村選手という元王者、そして元UFCファイターとのオファーを受けた時はどのような気持ちになりましたか。

「自分より下の選手とは戦いたくないので、田村選手とのオファーを頂いた時は即答でやりますと伝えました。強い選手なのですが、自分もUFCを目指しているのでここで勝てば良いアピールになると思います。本当に良いチャンスを貰えて、嬉しいです」

──5分3Rを王者クラスの田村選手と戦うことについては?

「もちろん田村選手のことは強いと思っています。覚悟を決めて、いつも以上に気合をいれて練習をしています。覚悟を決めている分、怖さはないです。いつも以上に強い相手なので、良いモチベーションになっています」

──田村選手は牛久潤太郎選手、鈴木琢仁選手と若手を潰しています。

「自分はその波に乗らせずに、絶対にぶっ倒して勝ちます。7戦全勝になれば、次はUFCに行ってチャンピオンを目指したいぐらいです。田村選手の方が格上ですが、ここは圧倒して当たり前のようにボコボコにして勝ちたいと思っています。

田村選手は本当に強いです。やられる可能性もあります。それでも試合にピークをもっていければ、絶対に圧倒できます。しっかり勝ちます」

──UFCにそのまま行きたいということですが、パンクラスのベルトに関してはどのような想いでいますか。

「そうする必要があるなら、狙っていきます」

──パンクラスのフェザー級戦線には日本人でもISAO選手、松嶋こよみ選手というそれこそ勝てばUFCに近づくことができる選手が上にいるかと思います。

「皆、レベルが変わらないぐらい強いです。なので、そういうのはありますけど……田村選手もホントに強くて、この試合で自分は試されていると思います。

ここで勝つと、こいつは強いと思われるようになるはずなので、しっかりと決めて……勝ってアピールしたいなと思っています」

──ここを見せたいという点があれば、お願いします。

「自分の試合はフィニッシュを期待されているので、そこをアピールしたいです。ただ、勝つだけじゃなくて圧倒してKOか一本で勝ちたいです」