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【Bu et Sports de combat】武術で勝つ。型の分解、サンチン編──01──「強い状態を作って始める」

【写真】サンチンを続けることで、MMAでの戦いに変化が生じたという松嶋こよみ (C)MMAPLANET

武術でMMAを勝つ。空手でMMAに勝利する──型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。型稽古とは自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない。

サンチン、ナイファンチ、セイサン、パッサイ、クーサンクーの型稽古を行う剛毅會では、まずサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。5種類の型稽古にあって、唯一サンチンのみが意味を吸いて吐くという意味での呼吸を学ぶことができる。

全ての根幹となる武術の呼吸を学ぶことができる──剛毅會のサンチンの解析を行いたい、


まず気を付けの姿勢で、手を体側の横にして指をしっかりと下に向けるところから始める。

左の掌の上に右手を重ね、掌が上を向いた状態から、

指先が下になる姿勢──中国武術的には起式と呼ばれる、最初の姿勢を取る。『この形を取るだけは体の中心を無くし姿勢として弱く、押されるなどすると乱れてしまう。腕を絞って下げることが重要となる。肩が下がり、合わせた手が前方に行き過ぎないようにし、しっかりと指を下に向ける』

「始め」の号令で結び立ちからカカトを広げて=爪先を内側にし、内八の字立ちに。正拳を握り、拳甲を前方に、拳頭は下に向ける。『ここで大切なことは、爪先を内側に向けるときに、1・2というテンポでなく、「1」のみ。つまり一挙動で行うこと。一挙動でないと、隙ができる。下げた腕は体側よりもやや後ろに。この状態から始めないと、その後のサンチンの型、動きは意味がなくなる。強い状態を作って始めることが絶対』

✖手が体側より前に出ない。手が前方に出ると前方に対して隙ができてしまう

続いて右足を内側にしっかりと円を描くように進ませる。小さい円だと進めた足が元の位置に戻ってしまう。

右前サンチンとし同時に両腕を胸の前で交差させて開き、両腕受けの姿勢を取る。『足の幅は肩幅より少し広く取り、爪先をやや内側に向け、同じ方向にヒザを向ける。ヒザを曲げるのではなく、同じ方向に向けることでヒザに力がある状態となる。前足のカカトと、後ろ足の爪先が同一線上となるよう気を付ける。この時、前足のカカトと後ろ足の爪先が延長線上で交わる地点を三角形の頂点となるように意識する。この三角形の頂点を意識することが、続く動作で非常に大切になる』

〇中を通り、大きく円を描いて足を進める

✖頂点を意識せず、内側をしっかりと円を描かないで前に進むと、体の中心を失い姿勢は弱くなる

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─08─站椿04「腕が動く時、空気がある」

【写真】突きも、飛行機も新幹線も、そしてF1も時間と空気の中を動いている。その空気の存在を感じるための站椿を剛毅會では採り入れている (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。

なぜ、型稽古が必要なのか。そして型稽古に站椿を採り入れているのか。それは我々の周囲には大気が存在し、重力や引力とともに成り立っているからだった。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─07─站椿03「中国の意拳は違う」はコチラから>


──站椿や推手がレスリングに通じてくる実感があったということですか。

「MMAにチャレンジしようと思ってもレスリングや寝技で勝とうということではなかったですからね。打撃で勝つにはテイクダウンをするレスリングと、テイクダウンをされないレスリングということで、レスリング自体も変わってきます。ずっと空手をやってきて寝技で勝とうなんて風にはやはりなれないですから、テイクダウンが上手くなろうというレスリングでの稽古ではなかったです。

でも、打撃だけ勝つなんて方法論は当時のMMAには存在していなかったので、自分が求めているMMAを稽古するうえで站椿は役立ちました」

──それはどういう風に役立つのですか。

「例えばレスリングやグラップリング、組み合いでも相手との衝突が起こるわけじゃないですか」

──ハイ。

「その組み合った時の力の逃がし方だとか、踏ん張りあっているときに意拳の動きを使うと、意外と凌げることができたんです」

──それは周囲から理解を得ることはできましたか。

「そこは試合に勝たないと理解はしてもらえないですよ。それが勝負、スポーツの世界です。だから周囲の理解云々とは関係なく、自分のなかで蓄積はありました」

──それは今もMMAに向き合っている選手たちにも生きるのでは……。

「生きます。ただ……何というのか、あの当時はまだ武術空手に出会っていなかったので、二子玉川に行くのに山手線をグルグルと回り続けるように、降りる駅が見当たらない状態だったんです。でも、それを『渋谷で降りれば、田園都市線に乗り換えて二子玉川に行ける』と教えてくれたのが武術空手、型だったんです。意拳、站椿をやっていて必要だとは感じている……ハマってきているものがある。でも、私がやっているのは自己流です。だから中国に渡って習おうと思った時期もありました。でも武術空手と型に出会うことで進むべき方向が定まりました」

──今、剛毅會で稽古をしている人達に站椿を指導するのは、どういうことからなのですか。

「それは……例えばサンチンをやるときに、最初に諸手の腕受けで構えを取ります。

その時に自分の腕が動く。自分の腕が動く時には必ず空気であったり、重力であったりというものは大気中にあり、それらとの関係のなかで動かしているんです。

その感覚はないと思います。ただし、事実として重力は存在しており、腕を動かすにも大気の流れと関係しているんです。我々は目に見えないモノに活かされていて、その事実関係を理解した方がより力が出ます。

引力も重力も空気圧も関係なく手を動かして力を出すのと、そこを踏まえて手を動かして力をだすのとでは違ってきます。新幹線が360キロで走るために、どんどん口ばしが長くなるような流線形の車輛に変わってきました。

F1だと前に進むのにはエンジンという動力があって、タイヤが回り、地面と設置する。そのためにダウンフォースという上から抑えつける力を利用し、かつ空気抵抗……ドラッグを少なくすることで、前に進みます。

四角い自家用車とは全く違うから、あのスピードでコーナーを曲がることができる。それと同じなんです、突くも受けるのも。飛行機が空に飛びだすためには空気抵抗をなるべくなくして、浮力を得る必要があります。抵抗していると、それこそ空中分解してしまいますよね。」

──私にとっては凄く分かりやすい例えです。

「実は私は飛行機に乗っていて、揺れるのが大嫌いなんです。

分厚い雲のなかに入っていく、あの揺れのなかで飛行機が気圧、気流、浮力、動力があり飛んでいる。『あぁ、これぞ武術だな』と思うことがあります。やはりパイロットも上手い人と、そうでもない人がいるのでしょうね。

一度、積乱雲のなかを飛ばすという時に『揺れますが、問題ありません』というアナウンスがあって。あの時の積乱雲のなかに飛行機が入っていく、まさに武術でいう入るですよ。飛行機はああいう空気圧の中に入っている。あの中で揺れなくするためにエンジンの回転数を上げたりだとか、色々とパイロットの人が操縦をしている。気流のなかでエンジンの回転数を上げる、それこそサンチンに要求される呼吸力ですよ」

──あぁ、面白いですねぇ。

「この呼吸力というのは言葉や文字では絶対に説明しても分かってもらえないです。実際に体験してもらわないと。だから体験してもらって、理解してもらう。そのための站椿です」

──これが面白いのは、興味があるからです。興味のない人には、やはり目に見えないし、腕を振るうのに空気抵抗は感じない。

「そうですね。だから否定する人がいるのは構いません。ただし、今、ここに存在しているものなのです。F1で同じエンジンを積んでもシャシーが違うと、速さも違ってきます。それはなぜか、シャシーが空気を制御し利用できているのと、そうでない場合があるからです。空気圧、重力と戦い、調和して機体差がでます。エンジンの出力はそれほど変わらない。それは人間、MMAを戦うために懸命に稽古している選手たちの出力も同じなら、この空気抵抗、重力を知ることで突きの威力は変わってきます。

ブラジル人やロシア人、米国人のような出力の高いエンジンを持っている連中と接触してからやり合おうと思っても勝てない。ただし、接触しなければ勝負できます」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─07─站椿03「中国の意拳は違う」

【写真】站椿をケージの中で使って、強いということでは決してない。そして武術と格闘技では修得するという点において、スパンがまるで違ってくる。それれでいてなお、重なりあっている(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。そんな剛毅會の稽古には站椿が採り入れられている。

空手と中国武術は切ってもきれない関係ながら、歴史上寸断された過去があった。それでも站椿に何かしら組手を変える要素があると感じ、1990年代中盤より中国から意拳の情報が伝わってくるようになると、岩﨑氏の興味はさらに深まるものとなった。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─06─站椿02「王公斎は型を不要とした」はコチラから>


──極真に全身全霊を掛けていたからこそ、武術空手に辿り着くことができたのだと。

「その通りだと思います。あの時、極真空手と意拳に縁があった。そして站椿の稽古があったことが、私と形意拳に縁があったということですしね」

──釈然としないながらも……。

「腑に落ちなかったんですよね」

──そこを腑に落ちるまで、解明しようという気持ちに時はならなかったのですか。

「それもありますし、中国武術に関しては文化大革命の際に無かったことにされているという歴史的背景も関係しています」

──というのは?

「一度、中国共産党政府としても武術を無いモノとしたのです。その一方で、意拳は中国拳法のなかで歴史が浅い武術という要素が加わります」

──1903年生まれの澤井健一氏が、1930年代に王向斎門下となっていることでも、4000年の歴史のなかで100年ほどということですね。

「王向斎は確か日本の年号いえば、明治19年生まれですからね。何より、中国の名立たる武術家は国民党と共に台湾に渡ったとされますが、王向斎は大陸に残り健康法として意拳を伝えました。文革からしばらく経って共産党が健康法としてのみ武術の普及を認めた。太極拳、気功が広く普及したのはそのためですね。

摩擦歩というゆっくり運足を練る稽古があるのですが、元々両手を挙げて行っていたそうです。ただ、そうすると武術だとバレるということで手を下げて行うようになったみたいですが、我々は澤井先生が戦時中に学んだ摩擦歩を学んだので両手を上げて行うと習いました。

先ほども言ったように文革からしばらく経って、共産党が武術を健康法としてのみ普及を認めたそうですが、そういう背景がありながら、王向斎の門弟の方々は中国本土に残り意拳を普及して行ったそうです。ただ私が空手を始めた80年代、そして90年代の序盤までは中国から意拳について情報が入ってくることはなかったです」

──ハイ。

「だから極真の先生方が澤井先生から習った站椿を、私たちが習う。そして腑に落ちないから真面目にやる気になれなかった。なんせ澤井先生が1988年にお亡くなりになり、中国で意拳を習った方は日本にいなくなってしまったんです。

それが90年代も半ばを過ぎると、中国から情報が入ってくるようになりました。鄧小平が経済開放区を設け、社会主義市場経済を用いたことで武術的な情報も日本に流れてくるようになりました。

その頃になると、日本で意拳を稽古されている先生方も中国に行くハードルが下がり始め、中国の意拳の先生も来日して指導される機会も増えていきました。書物も圧倒的に増えました。私も映像や文献も読むようになり、『アレっ、俺が思っている意拳と中国の意拳は違うんじゃねぇか?』と思った時から、ハマっていったんです。

やたらと腰を落として、カカトを上げて足腰を鍛えるモノではない……ということは、私に限らず多くの人が思ったはずです。単なる肉体の鍛錬方法ではないことには気づきました」

──それが気であったり、内気であると、まるで別物だと捉える人もいたかと思います。

「これは私の話ですが、気というモノには全然興味がなかったです。ただ、前に言ったように何かが違う。それが意識なのか、心なのか。それとも神経なのか……とにかく何かは分からないけど、站椿をしてから組み手をすると何かが変わるという状況が、中国から情報が入ってくるようになってからは、より加速したんです」

──おぉ。実感できるほどだったわけですね。岩﨑さんは粗暴な言葉とは裏腹に、繊細な人じゃないですか。

「粗暴って、私は……繊細ですよ(苦笑)」

──だから、その違いが感じられたのでないでしょうか。

「それは今、武術空手を指導していて……そういう気持ちの持ち主、その気持ちがあると型や武術空手を学ぶ際には凄く役立つと感じています。心や感性、感能力と呼んでいるのですが、感受性の強い人──目に見えないモノを理解する意識や心を養うのには凄く良い練習になると思ったので、站椿を指導するようになったんです」

──一緒に切磋琢磨した人達にその考えを伝えると、どのような反応だったのでしょうか。

「MMAと比べて、空手の世界は夢を追うという空気がありました。MMAは世界中でやっていて、強烈な現実が映像で伝わってくるモノですから。MMAで現役を引退すると、経験値で指導して、技の探求を続ける人は私が知る範囲では空手より少ないと思います。

対して私が空手を始めたころは、選手を引退するから空手を辞めるということがあり得なかった時代です。空手は一生修行するもので、選手生活はその一部だったので」

──MMAは絶対的にというか、何を置いてでも一生追及できる要素の固まりだと思っています。だからMMAと武術が結びつけば、MMAファイターは引退後もMMA家になれるのではないかと。

「それは武術空手家にも言えることです。私は武術空手を一生を通して追及するのであれば、若いころにMMAを経験していることは何よりも財産になると思っています。実は剛毅會で空手を究めたいと言っている25歳ぐらいの子に、前に『空手だ、武術だと偉そうに言っても、お前が一生空手をやるうえでこの経験があることが大きな違いになる。この3分✖2Rを経験しないで、大先生になった人間がたくさんいるんだ』と伝え、アマチュア修斗に申し込んで出場させてもらったこともあるんです。

彼はMMAのチャンピオンになるためでなく、空手の修行としてまだ若いからMMAを経験しています。話を戻すと、スポーツの人って現実が全てです。UFCを見て、ロマンチストになれないですよ。リアリストで強くなければ。

一方で空手は夢見ることができます。将来的にという将来のスパンがMMAと違います。だから、そこに近づくために站椿のような稽古をやろうよと言うことができる──それはありますね」

──岩﨑さんも站椿の意味合いというのは、武術空手を追求するようになってから理解が深まったのですか。

「武術空手に傾倒する以前ですね。ヴァンダレイ・シウバと戦った頃、稽古は站椿、意拳とMMAスパーリングでした。それ以前のフルコン空手の選手を引退する前なども、結果は伴わなかったですが成果を感じることができていました。当時は身体意識ぐらいだったと思うのですが、その身体意識を養っていけば、まだまだ上手になるのではないかという気持ちでいたので、レスリングや寝技でも意識していましたね。出稽古でグラップリングのスパーリングをしていても、站椿や推手のつもりでやっていました」

──それは岩﨑さん、やっぱりロマンチストですね(笑)。

「まぁ、そこにも武術的な力の使い方というものがあるので」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─05─站椿01「極真✖太気拳」

【写真】站椿とは、何か。MMAファンも一緒に学んでいけることが楽しみだ(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

武術空手で行う5種類の型にあって、息を吸いて吐くという意味の呼吸が学べるのはサンチンだけだ。そして、剛毅會空手では站椿も稽古に取り入れる。そもそも站椿とは何なのか。武術空手を知る上で、切っても切れない関係ながら、深みに入ることが恐ろしくもある中国拳法の入り口付近を、これから暫らくの間は歩いていくこととする。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─04─サンチン03「目的と設計図」はコチラから>


──サンチンだけが吸って、吐いてという呼吸を学べる。そのなかで站椿を剛毅會空手で取り入れているのはなぜでしょうか……という質問の前に、多くのMMAファンは站椿とは何かと疑問に思うかと。

「站椿とは何か。アハハハハ。站椿とは何かとは、永遠の課題なんですよ。立禅(りつぜん)という呼び方もありますが、それは日本の人間の言い方で書いてそのまま立ってやる禅だと。そうなると、なぜ禅なんだ。そして禅って何だよっていう話になってしまいます」

──それこそ禅問答だと。

「ホント、だから突っ込み始めるとキリがない。站椿とは一般的には筋肉とか、目に見える技とだかではなくて、体の内面のエネルギーを養成する稽古とは言われています」

──それは空手ではなくて、中国拳法の世界でということですか。

「ハイ。中国拳法で、です。私は中国拳法の専門家ではないのですが、私の知識の範囲でいえば中国拳法は仏教系、道教系、回教(イスラム教)系の武術に分かれています。八極拳などは、回教系の武術なんです」

──えぇ!! そうなのですか。

「宗教と結び付けて稽古することが多くて、前回お話したようにサンチンは白鶴拳のなかの鳴鶴拳から来ていることは間違いないのですが、白鶴拳はどちらかというと仏教系の拳法なんです。そして内家拳は道教の拳法で、代表的なのが太極拳、形意拳、八卦掌という3つです」

──MMAファンも太極拳はもちろん形意拳、八卦掌は耳にしたことがあると思います。

「そのなかの形意拳から、シンブルに技を抽出したのが王向斎によって創られた意拳です。その意拳の主たる稽古が站椿でした。それが一般的な考え方です」

──意拳では站椿のような稽古ばかりで、組手は存在しないのでしょうか。

「約束組手のようなモノから、推手という……見た目は手をグルグルと回し合ってバランスを崩すようなモノ、また自由組手──スパーリングのようなモノもあるそうです。この道教系の拳法には、五行合一(ごぎょうこういつ)──古代中国にあった万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなり、栄枯盛衰はこれらの元素の働きで変化するという自然哲学の思想や、小周天(しょうしゅうてん)という自分の体の中のエネルギーの経路や周囲に気を通すということや、大周天(だいしゅうてん)という人間と大地との交流だとか、そういうことと結び付けて説明する特徴があります。

この考え方自体が道教の思想なんです。そして意拳では組手をするにしても筋肉や技を鍛えて挑むのではなく、意や気のような人間の内面を練って戦うということです」

──内面の気を養成するために站椿という稽古が存在しているということですか。

「これも一般的な話でいえば、形を養うこと。その結果、打撃の破壊力、威力が増すため、つまり武術的な能力を高めるために取り入れている……のでしょうね。だから理解できないというか、理解する気がない人には理解ができない稽古だと思っています」

──その理解することが難しい站椿と岩﨑さんの出会いというのは?

「それは……たまたま私は站椿を取り入れているフルコンタクト空手の道場に、子供の頃からいたわけです」

──まぁ、もう読者の皆さんはそれが極真だということは理解できていると思いますが、極真ではどの道場でも站椿をやっていたということでしょうか。それとも城南支部だけだったのですか。

「もともと大山倍達先生が日本人で唯一、意拳を中国で習ったとされる澤井健一と深い交流がありました」

──それこそ王向斎に学び、太気拳の開祖となった澤井健一氏ですね。

「ハイ、そういう経緯で我々も站椿の稽古をするようになったんです。実は交流試合なんかも、やりましたし」

──あっ、太気拳と極真の人たちが掌底ありで組手を行うビデオは見たことがあります。こういうとアレですが……ヒョロヒョロでTシャツを着ている太気拳の人が、極真の人にバンバン掌底を当てていて……。

「アハハハ。ヒョロヒョロの!!」

──岩﨑さんも立ち会っていたのですか!!

「私は中学校3年生で、先輩達がやっているのを見ていました(笑)」

──ただ、あの映像は衝撃的でした。極真の屈強な人たちが、もやしみたいな人に顔面に掌打を食らっていて。ただ、今からするとだって太気拳のフィールドじゃないかと理解できるのですが。

「確かに掌底を受けていましたよね。そして、結論からいえばいつものルールではなかった。言われた通りです。極真ルールでやれば極真の人達の方が優勢だろうし。ただし、顔面を殴られて良いというモノではないですからね。その後グローブが出てきたり、MMAが出てきたことで顔面掌底どころでない時代となりました。そこを根っこから穿り返そうと、私は独立した時に思ったわけです」

──バーリトゥードはともかく、グローブよりも掌底とはいえ素手だったのでえげつなく感じました。

「それはそうかもしれないですね。指先が目に入ったりしていましたからね。外側の怪我はグローブより多かったです。ボクシングやキックがあった時代ですから、グローブよりも掌底の方が見慣れていないというのはあったと思います。ただ、アレって忘年会……武道の世界では納会での一幕で。先生方も澤井先生に習っていたりしたので、組手をしている先輩方は緊張感はあっても、殺伐とした空気のなかで行われていたわけではなかったです」

──なるほどぉ。いやぁ、凄く貴重な話をありがとうございました。そういう交流があり、站椿を取り入れていた。ただ、太気拳そのものを取りいれることはなかったのですか。

「熱心な先生、全然関係ない先生がいました。私の道場はたまたま站椿をやる方だったけど、まぁ優秀な先輩方も含め全員が一生懸命やっていたわけではないです。私も取りあえず站椿の稽古をしていたということで、決して熱心ではなかったです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─04─サンチン03「呼吸、体、精神」

【写真】剛毅會のサンチンでは、息を吐くときにハッキリと発声することはない (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。ここで取り上げているサンチンもそのルーツは中国武術にあるといわれている。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

同じサンチンでも、各流派で順序こそ同じであっても、内容が違ってくる。中身が違う一番の理由は、型稽古を行う目的が違うためだ。力を出すための型稽古と、力が出る型稽古は呼吸の意味合いも違っていた。

武術空手のサンチンで行う呼吸とは、英語にした場合にはBreathingにはならない。そして、『ハァ』という発生を伴う呼吸もない。空手における息吹の有無、ここに触れてみたい。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─03─サンチン02「目的と設計図」はコチラから>


──Breathingでないということは、息を吸って吐いて、だけではないということでしょうか。「阿吽の呼吸」という言葉にある呼吸に、通じているのですか。

「そういう風にいう呼吸ですよね。相撲は立ち合いで呼吸が合わないと、始まらないですよね。呼吸という言葉を、阿吽の呼吸や相撲の立ち合いでの呼吸という風に使っている国は、日本の他にないと思います」

──呼吸とは息づかい、あるいは英語だと息をつくということで休憩するという意味ぐらいですね。

「そういう日本独自の言い方の呼吸……ですよ。Breathingではない。一つ言えるのは、オーケストラの指揮者がいるじゃないですか」

──ハイ。

「アレも同じ譜面があっても、名指揮者と呼ばれる人がタクトを振るのと、覚えたて人がするのでは、同じ軌道を描いたとしても違ってくるはずです。それも日本語独自の呼吸ですよね」

──演奏者と指揮者の呼吸ですね、まさに。

「ピアノの伴奏に合わせて、歌い手が歌うのも呼吸ですね。サンチンは突いて、それを円で腕受けする。言ってみると、それしかない型なのに突いてからの腕受けの呼吸が、どれだけでも深めていけるんですよ。サンチンとは、その呼吸を得ることができる唯一の型なんです」

──その呼吸がBreathingでない、呼吸になるのですか。

「Breathing、医学的にいう呼吸もあります。吸って、吐くという」

──サンチンの呼吸は吐く時に口を開け気味にして、しっかりと意識しています。

「ただし、それは呼吸を人に見せているのではなく、呼吸を意識することで、自分の呼吸を理解しているんです」

──そこが最も重要だというのは?

「吸って、吐いてという呼吸はナイファンチンからはやらないんです。吸って、吐いての呼吸と同様に動作の呼吸というものがあります。それが先ほどのタクトを振るうということで例えると、何となく振っているのと、オーケストラ―全体を俯瞰して、そのハーモニーを考えて振るのでは、武術的に言えば呼吸が違うということになります」

──もっと大きく声をあげる、いわゆる息吹という呼吸はどういうものなのでしょうか。

「私がやってきた他流派のサンチンの呼吸は、ただ単に吸って、吐くというものでした。喉を鳴らして『カァ~』って言う」

──息吹はなぜ、あの『カァ~』という声を出すのですか。

「ああいう呼吸は、東恩納寛量先生はしていなかった。宮城長順先生から始まったと私は聞いています」

──剛柔流の開祖の宮城朝順から息吹を始め、極真もその流れをくんでいると。

「これも聞いた話なのですが、宮城先生が中国を訪れた時に、そこで見た……それは福建省の白鶴拳でまず間違いなくて。白鶴拳にも飛鶴拳、宿鶴拳、食鶴拳、鳴鶴拳という四大流派があります。

そのなかで宮城先生は鳴鶴拳を見てきたみたいで、その影響を受けたと聞きました。鳴鶴拳は、その名の通り鶴が鳴く、威嚇する形意を表していて、その際に套路で攻撃の威力を増すために内勁(内功)を練る。その呼吸法として、『クォ~』、『カァ』という声を挙げているようなんです」

──それは鶴の真似をしてという風に理解して良いでしょうか。

「鳴いている鶴の真似をしているんだと思いますよ」

──息吹は鶴の鳴きまねだったと。それって元々は白鶴拳では内功を練るということですが、声を出すことが必要だと思われますか。

「う~ん、そういう風に疑問を感じたことがなかったんですよ。やりなさいと指導を受けて。審査のためにやっていたようなモノで」

──奇しくも水垣偉弥選手が剣道をやっていて、剣道にも型があるのですが、昇段検査のために何も考えることなく覚えていたと言っていたことがありました。

「そうですね。やらないと、帯がもらえない。そういうことでしたね。それが──精神を落ち着けるためにあるだとか、そういう風に書いてある本もありました。臍下丹田(せいかたんでん)に力を込めて、『クォ~』、『カァ』とやることで心を落ち着けるだとか。だから試し割の前に、心を落ち着けるために『クォ~』、『カァ』とはよくやっていましたよ」

──精神統一のために。自己催眠のようにして、落ち着くのですか。

「いやぁ、無理でしたね(苦笑)。そりゃ、緊張してしまっていますからね……そんなことをしても。だから、そういう経験がなかったり、知識がなくて剛毅會でサンチンを始めたような人のなかには、呼吸という部分に関して他で経験してきた人達よりも感じやすいというのはあります。それって他の知識や経験がないので、自分が感じたこと……そのものズバリなんです」

──空手は流派が多く、サンチンを実際に行っているところも少なくない。だからこそ、呼吸のためのサンチンというものが存在しないサンチンが往々にあるということなのですね。

「ウチでやっているサンチンしか知らない。そこで何かを感じ取っていると、『クォ~』、『カァ』とやるのを見ると違和感を覚えるばかりでしょうね」

──その呼吸ですが、例えばヨガだとやっている間に眠くなるというのを聞いたこともありますし、実際に見学しているとやっている人が眠ってしまったのを見たこともあります。ゆっくり呼吸をすることで、サンチンをしている時に眠気を覚えるようなこともあるのではないでしょうか。

「あるかもしれないですが、それは良くないことです。それは気持ち良くなってしまっていますよね。力むよりも良いですが、ゆっくり動くなかで筋肉や、心の状態にどのように呼吸が影響しているのかが、体得できていない。だから眠くなる。サンチンは呼吸、体、精神という三位一体で見つめて、深めていけるものです。同じ姿勢でも、ゆっくりと呼吸を理解していけば、足元にその影響が出ているとか、自分で感じることができます。

その想いが共有できない人に動きの順序や、形を真似てもらっても、そこは理解できない。と同時に理解し始めた人が、もっと知ろうと疑問をぶつけてくれた時、そういう部分を掘り下げていないと、答えることすらできない。そして言葉では、もう延々と説明ができてしまうので、『なら実際に動きましょう』となる。その繰り返しなんです。やればやるほど味のある型、それがサンチンです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─03─サンチン02「目的と設計図」

【写真】廻し受け──虎口も呼吸が違うのは、型を行う目的が違う。ではその目的とは何なのだろうか(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也宗師は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

同じサンチンでも、各流派で順序こそ同じであっても、内容が違ってくる。なぜ、中身が違うサンチンとなるのか。

<【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─02─サンチン01「根幹となる呼吸」はコチラから>


──剛毅會ではサンチン、ナイファンチン、クーサンクー、パッサイ、セイサンという5つの型の稽古をします。そして口からの呼吸を通してカラダの呼吸をサンチンにより学ぶとのころです。そこで得たことで、その後の技は変わってくる。呼吸を突き詰めれば詰めるほど深く、強くなっていくと。そして呼吸によって養われる破壊力は、加齢に関係なく上がってくということですが、このサンチンにしても剛毅會のサンチンと伝統派、フルコンタクト空手の流派が行うサンチンは順序が同じでも、呼吸や動きが明らかに異物です。

「私は他流派といっても、伝統派のサンチンの稽古をしたことがないので何ともいえませんが、剛柔流のサンチンと極真のサンチンは同じ流れで来ていると思っていました」

──動画などで視てみると、こういう表現が正しいのか分からないのですが、極真のサンチンの方がキビキビしているように感じました。剛柔流に対して、もちろん剛毅會のサンチンと比較しても。

「う~ん、キビキビして見えるのは、決めが原因になっていると思います。私の追求している武術空手とは、決めの意味が違うんです。なぜ、決めの意味が違うのか、それは目的が違っているからなんです。そのサンチンもシンプルな突いて、腕受け、突いて、腕受け、中割れ、虎口という流れはほとんど同じです。

そしてサンチンとは、吸って吐いての呼吸の型。または筋肉……体を鍛える鍛錬の型と言われています。しかし、その呼吸の目的、鍛錬の目的が全然違うということなんです」

──岩﨑さんの経験談として、極真空手時代にどのような鍛錬を行っていたのかを教えていただけますか。

「私はまぁ角材で体を叩いたり……ですね。そういうことで体が強くなるという。ただし、今から思うと鍛錬することで最も大切なことは、力を出してはいけないということなんです」

──力を出してはいけない?

「筋肉を締めて、力を入れて……つまり力を使って痛くないようにしても、それは空手の鍛錬にはならないんです。サンチンなど型で力を出すのではなく、型よりに力が出ていないといけないんです」

──力を出すというは、力を出そうという意識が働いているということでしょうか。

「その通りです。力を出そうとするのと、出ているのではまるっきり違います。どうしても鍛錬するというと、鍛えるという意識が働くので力を込めてしまうんです。でも、それでは意味がない。剛毅會空手にとって正しい型を稽古すれば……そうですね、呼吸をゆっくりして、突きや腕受けにしても、キビキビとしたキレなどなくても良いんです。それによって、強さや繋がった感じなどが明らかに違ってきます。

つまり設計図通りに型をすれば、ある種の力が出てくるんです。それは力を込めても、出るものではないということですね」

──では順序は同じでも、設計図が違うということですね。つまり根本が。

「目的が違えば設計図が違い、全てが違ってきます。もう、だから型といってもまるで違うもので、こういうことをいうとアレなんですが、私の気持ちとしてはコメントのしようがないんですよね。同じ順序、同じ名称であることがもう、そもそも違うだろうということなので。

極端な話になりますが、筋肉を締めて力をだすのであれば、型でなくウェイト・トレーニングをすれば良いと思いませんか?」

──あっ、なるほど。その例えは型を知るうえで凄く言い得て妙ですね。

「ウェイトで鍛えた筋肉があれば、殴られてもやられないようになります。でも、それはサンチンをすることで出ている力ではないということです」

──サンチンが違っているのであれば、もう他の型も全て違ってきませんか。

「そうなんです。指を伸ばして突いてみたとします。指は弱いですから。それを巻き藁とか砂袋、小豆の中に突っ込んで貫手を鍛えるとかありますが、それで私は強くなった覚えはないです。そうするよりも指を伸ばした設計図通りにやれば、力は出ているんです。力を出しているのではなくて、そういう力が出ているんです」

──では昔の沖縄の手の人たちは、硬いところを殴って鍛錬するというのは、力を出すのではなくて、力が出るよう稽古していたということですか。

「それは分かりません。私は琉球の型がどうだったのか、分からないんです。私が習った型がそうであっただけで。ただし、叩くということと型はまた違うかもしれないですしね。だから私は消去法で見ています」

──消去法で見るというのは?

「空手は数多くの流派があり、それだけの稽古があります。どのような稽古をしているのか、それを耳にしたときに自分が求めているモノと共通している部分はあるのか。あるいは全く関係ないのか。そういう部分で、自分が探求したい、知りたいというモノ……消去法で残ってものに対して学ばせていただくという気持ちでいます。

イメージとしては昔の手の人たちは何かを叩くというよりも、お豆腐のような柔らかいモノのなかに指が綺麗に入っていく。そういう感じに近いような気がします。貫手の場合は」

──では呼吸の目的の違いとは、どのようなことでしょうか。

「呼吸に関しては……多分ですね、もう語りつくせぬほど違いが見られます。そのなかでも根本として、自分の呼吸と相手との呼吸が存在し、武術空手のサンチンで行う呼吸とは、英語にした場合にはBreathingにはならないわけです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─02─サンチン01「根幹となる呼吸」

Sanchin【写真】松嶋こよみのサンチンの最初の流れ (C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

型を重視する剛毅會の武術空手だが、岩﨑達也師範は「型と使って戦うということではない」と断言する。自身の状態を知り、相手との関係を知るために欠かせない型稽古を剛毅會ではサンチンから指導する。

なぜ那覇手のサンチンから型を学ぶのか。そしてサンチンが持つ意味とは何なのかを今回から探っていきたい。

<なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─01─はコチラから>


──今、空手界には多くの型が存在しています。

「剛毅會で取り入れているのは、5つです。サンチン、ナイファンチン、クーサンクー、パッサイ、セイサンですね。5つの型を稽古していますが、求めているのは1つだけなんです」

──それもどういうことなのでしょうか。5つの型を稽古して、求めているモノは1つというのは。

「勉強をしているのは、ある法則性なんです。サンチンでは全ての根幹になる武術の呼吸を、ナイファンチンでは戦い方の基本を、クーサンクーでは四方に対する戦い方を、パッサイでは途切れることない技の流れを、セイサンでは究極の一挙動を学びます。

これからどういうことなのかは、これから説明していくことになりますが、この5つの型を稽古して、求めるものは一つ、原理原則なのです。

だからサンチンでやっていることが、ナイファンチンだったり、ナイファンチンで要求していることをクーサンクーでやったり。最後にセイサンをやって、そこでサンチンが理解できることがある。だから、5つの別々の型をやっているのではなく、1つのことを追求するのに5つの手段をこうじているということなんです」

──1つのことを求めるのに、なぜ稽古する型はその5つに絞られたのでしょうか。

「型はもう本当に色々なモノがあり、私がやる武術空手と系統が違うモノが山ほどあります。その多くが日本に入ってきて、整備された後の型なんです。そして私がこの5つの型を続けているのは、〇〇流の型だとか、〇〇先生の型ということではなく、MMAのなかで自分自身の組手が変わったのが、この5つの型があったからなんです」

──組手が変わったというのは?

「まぁMMAだろうが、私は空手家だから組手です。それまで20年間変わらなかったものが、ある日急に変わりました。『これは何だろう?』となりましたね……。それ以前は型に何かがあるというのは全く思いもしていなかったです。型をやらされていて……いみじくもやらされていてと発言をしましたが、そういうものだったんです。型が組手にどうつながるのか、全く学んでいなかったです」

──組手と型はまるで別物だと。

「ハイ。本当に別物でした。昇段審査のためにやる。伝統派空手の型競技とも違いますし、自分がやってきた型も組手には関係なかったです。だから、今では格闘技と武術は違うと言っていますが、自分自身のなかでは組手で勝つために型をやりました。

それは松嶋こよみが型の稽古をする理由とは違うかもしれない。ましてや格闘技をやっていない人が、ヨガのように健康法として型をやるのとも目的は全く違うでしょう。ただし、自分の状態を知ることと、他との関係を知るという真理は格闘技にも、健康のためにも役立つことです」

──沖縄空手には那覇手、首里手、泊手が存在していましたが、サンチンは那覇手、ナイファンチやクーサンクーは首里手や泊手。そのなかで岩﨑さんはサンチンから、まず稽古をします。

「別にナイファンチからやっても良いと思います。ただし、私が習った順番がサンチンからだったので、その順序で指導しているということです。系統的にいえるのは、私のやっているサンチンは那覇手の東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)先生のサンチンです。その後、教え子の宮城長順先生が剛柔流空手を開きましたが、私が習ったのは東恩納寛量先生のサンチンだと聞いています」

──剛柔流でないということは……つまり。

「弄られていないモノですね」

──東恩納寛量のサンチンが残っていたというのが、凄いことですね。それはいつ頃の話になりますか。

「15年ぐらい前ですかね。とにもかくにもサンチンでした。だからサンチンから指導する。これは私の感覚なのですが、そもそも私が習った先生から、『空手という武術の稽古は、那覇で鍛え、首里で使う』という沖縄に伝わったとされる言葉を教わりました。

空手を学ぶにしても、どういう体質なのか、どのような人間なのかでそれからは決まってきます。だから素材を理解せずに、使い方だけ覚えても限界があります。サンチンで自分という素材を把握して、なおかつ開発していくのです」

──5つの型を稽古して、一つのモノを求めるということですが、サンチンが基礎、根幹をなすということですか。

「根幹になる呼吸ですね。型の基礎、根幹ではなく。どのような畑でどのような作物を作っていくかということに近いかもしれないですね。これもいずれ詳しく説明しますが、武術には口からの呼吸とカラダの呼吸があります。

サンチンでは口からの呼吸を通してカラダの呼吸を学びます。呼吸は農作における田畑や気候などであり、それにより出来上がる作物こそ、武術でいうところの技になります。サンチンによって、技は当然変わってくるんです。そして呼吸は突き詰めれば詰めるほど深く、強くなっていいきます。その呼吸により養われる破壊力は、加齢に関係なく上がっていくという実感があります。

これも私の考えですが、エビ、ヒップエスケープが仮に寝技の根幹だったして柔術や柔道に存在するとします。それは柔道や柔術をやる人にとっての基礎ですよね。ゴルフや野球にも、そういう根幹があるでしょう。

でも、それはゴルフや野球をやらない人には関係ないです。エビは柔道や柔術をやらない人には関係がない。でもサンチンをやっていると立ち方から、自分の動き、その癖を理解できるようになります。サンチンとは柔道や柔術をする人達、野球やゴルフをやる人々にも役立ちします。つまりは空手、MMA、格闘技をやろうがやるまいが、型を学んで損はないということなんです」

<この項、続く>

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【Bu et Sports de combat】なぜ武術空手に型の稽古は必要なのか─01─「自分の、相手との状態を知る」

Koyomi【写真】松嶋こよみは数少ない──といより、ほぼ存在しない型の稽古を行うMMAファイターだろう(C)MMAPLANET

型、中国武術の套路をルーツとされるなか沖縄で手の修得に用いられた。それが空手の型だ。元々は一対一、あるいは極小人数で稽古が行われていた型は、明治期に入り空手が体育に採用されることで、集団で行う体力を養う運動へと変化した。

現状の競技空手には組手と並んで型(形)競技も存在していることは、幻の五輪イヤーで多くの人に知られることになった。空手の攻防の技を一連の決まった動きにまとめ、敵がいることを想定して演舞する──形競技。パワー、スピード、バランスを踏まえたうえで技の正確性を5名の審判員より判断される。

躍動的であり、美しい。そんなイメージの型競技だが、果たして実戦や競技空手で役立つことはあるのか。その関連性は非常に薄いことは伝統派ポイント空手、フルコンタクト空手共にいえるだろう。

そのなかで伝統派競技空手でもフルコンタクト競技空手でもない剛毅會の武術空手は、型稽古が重要視されている。MMAで活かせる理を持つ武術空手になぜ型稽古が必要なのだろうか。それぞれの型を解明していく前に、その必要性を剛毅會・岩﨑達也師範に問うた。


──武術空手にとって型とは、何なのか。もちろん、それは型競技の型ではない。剛毅會空手になぜ型は必要なのでしょうか。

「最初に言えることは、型を使って戦うということはではないのです。使い方は指導します。私が武術空手の指導をするようになって15年経過しましたが、そのようなことは一度もなかったです」

──例えば打撃のミット打ちや、レスリングの打ち込み、柔術のエビでも実戦に転用できます。しかし、武術空手では違うと。それでも型稽古を行う理由は?

「型は打ち込みやミット、エビとは違います。ある状態を学んでいるんです。繰り返しますが、型を使って戦うということはありません。型の稽古とは、決められた動作を行って自分の内外に生じる様々な状態を学ぶことを目的としています。

歩幅にしても、ほんの少しの差で体がブレてしまうことがありますが、正しい状態にするとブレない。ナイファンチなら、左を向いたら右に隙ができるだとか、色々な状態を勉強するのが型なんです。

ただし、型も弄ってしまっているとその勉強にならないんです」

──弄っているとは?

「指導者、先生の考え方が入ってくると変わってしまうということですね」

──しかし、型は流派によって名前が同じでも動きはもう違うかと。

「ハイ、相当に違います。ですのでナイファンチと言っても、私が言うところのナイファンチと他の方が言うナイファンチは違うと思います。だから、あくまでも私がやっているナイファンチに関して言及させてもらうと、ナイファンチを通じて自身の状態を確認するということなんです。

今、自分はどのような状態なのか。体がどういうことになっているのか。拳の位置だとか、先ほども言った歩幅、足の位置、視線、自分の状態で攻撃が届くのかという点において、相手との関係も変わってきます。相手との距離が長くなったり短くなったり、自分が攻めやすくなったり、攻めづらくなったりする。それが相手との状態ですね。

だから自分の状態と相手との状態、両方を考えながら多くのことを学ぶ。それが型の稽古です」

──武術の理は、本来スポーツ、競技会とは違うところにあります。ただし、スポーツで勝つのにも生きる。では型というのは、武術を極まようとして修行者だけでなく、試合に勝つ競技者にも必要になるということですか。

「例えばボールを投げられ、バットを振ってホームランを打ちたいと思った時に、ボールにバットを当てて飛ばしたいと思っただけで、その結果を得ることができるのか。そのボールは見えているのか。ボールに対し、自分のバットの振り方はどうなのか。ホームランを打つには、色々と欠かせない要素があるわけじゃないですか。空手の組手も同じで相手の攻撃をしっかりと見て、攻防一体の攻撃をすることが理想的です。

結果としてボールを打ってホームランにしたいのだけど、自分の状態だったり、自分とボールとの関係を勉強していない人は、どれだけに才能に満ち溢れていてもスランプに陥ると思います。ホームランを打ちたいという気持ちばかりで、自分の状態や相手のとの状態が分かっていない選手は、格闘技でも勝とう、勝とうとするあまりにバランスを崩して、相手に付け入る隙を与えてしまう。それと同じことですね。

空手の立ち方一つをとっても、設計図があるとしてください。その設計図があると、歩幅が違いや色々な間違いが生じていることが理解できるのです。骨盤の幅で下ろすと、カカトが真っすぐ立つ。このことによって両足が骨盤に対して、しっかり繋がっていると分かります。正しい設計図です。この設計図に対して、外側の現象が起こります」

──相手がいるということですね。

「ハイ。近くなったり、遠くなったり。それが結果的に質量と言われるものになり、統一体と呼ばれている状態だと自分の質量は上がることになります。この設計図が正しいと、統一体になります。けれども、犬でも普通に座っている時と、襲い掛かろうとしている時では質量は全く違ってきます。それが内面の状態ですね」

──犬ですか……。先ほどのように野球に例えると、どういうことにりますか。

「漫然と素振りをするのと、二死満塁でバッターボックスに立つのとでは明らかに内面は違うということですね。打撃でもシャドーではどれだけ打てても、本気でパンチを打ち込んでくる相手と向かい合うと内面の状態は違ってきます。

つまり来たボールを打とうとしていても、中の質量は当然変わってきます。だから格闘技をやろうがやるまいが、空手をやろうとやるまいが、人として生きていく上で自分の有り方により生じる、様々な現象を学ぶのに武術空手の型は有益なのです。私は型をヨガに例えることもあります」

──野球から次は、ヨガ……ちょっと難しいです。

「ヨガのあのポーズを取っていて、何に気付くかということなんです。つまり型をやっていて、何に気付くのか。そういう意味でヨガと呼ぶことがあるんです。一般的に空手と呼ぶと、武術、武道、戦う時に使う手段と取られるのが普通ですからね」

──つまり武道空手は、空手競技に挑む人や格闘技をする人だけのモノでないと。

「空手をやろうが、戦わないでいようが、日常生活でもあらゆる面で、自他との関係は生じます。その関係の自分の状態、他との状態で変化してきます。コロナ禍にある社会で、2カ月前の状態は通用しなくなっています。

剛毅會では型だけでなく、状態を理解するために中国武術の站椿を取り入れることもあります。自分の状態が理解できることで、外との関係の勉強できまるからです。なら、やらない手はないですよね(笑)。

鍵となってくるのは本人のブレない価値の絶対性ですトレンドに左右される価値は困窮する一方でしょう。そのブレない価値とは私にとっては武です。この大変な状況において、まず自分はどうあらねばならないか──私も稽古を通じて、その大切さを痛感しています」

<この項、続く>